オリンピアン(オリンピック出場選手)からスポーツを習う。そう聞くと上級者向けのレベルの高いレッスンを想像してしまいませんか?今回紹介する古澤緑さんもオリンピアン。クロスカントリースキーの選手として2つのオリンピックに出場しています。現在は「8spハチスポスクール」を立ち上げ、コーチとして札幌を中心に活動中。
古澤さんのレッスンは、本格的に大会などを目指す上級者向けもありますが、健康維持のために体を動かしてみたいという初心者や子どもまで、それぞれの目標やレベルに合わせた内容が評判です。レッスンからは、自身の経験を生かし、たくさんの人に体を動かす楽しさ、スポーツをする喜びを伝えたいという思いが伝わってきます。
昨年には、これまでの経験をベースにしたオリジナルメソッドも発信。そんな古澤さんにこれまでの歩みやこれからのことなどを伺いました。
クロスカントリースキーの夏場の練習は、緑豊かな自然と青空の下で
今回、古澤さんに話を伺ったのは夏の終わりのモエレ沼公園。よく晴れ、園内の緑がまばゆい日でした。この日、古澤さんは取材前に大学のクロスカントリースキーの部活の指導をしていたそう。
「クロスカントリースキーは冬のスポーツですが、夏場のトレーニングは屋外でローラースキーやランニング、ノルディックウォーキングなどを行います」
実際、ローラースキーを滑っているところを見せてもらいましたが、緑の中、スピードに乗って進んでいく様子がとても気持ち良さそうです。「無理なく楽しく体を動かすには、体の使い方が大事なんですよ」と古澤さん。
「いきなりローラースキーは難しいので、少しノルディックウォーキングをやってみますか?」とご提案いただき、ポールを2本持って歩くノルディックウォーキングを体験させてもらうことに。ポールをついて歩くだけかと思っていたら、これが意外と難しい…。古澤さんの声掛けに合わせて体を動かそうとしていると、不思議と背筋がピンっと伸び、足がグンっと前に出ます。ほんの短時間でしたが、「体の使い方が大事」という話が分かったような気がします。
子どものころはのびのびやっていたクロカン。本格的にはじめたのは高校生から
さて、古澤さんがクロスカントリースキーをはじめたきっかけなど、これまでの歩みを順に伺っていくことにしましょう。
古澤さんは秋田県大館市出身で、実家は温泉旅館を営んでいました。古澤さんがクロスカントリースキーに出合ったのは小学生のときだったそう。
「当時、地元では小学生も部活があって、私は陸上部に所属していました。でも、冬は外で陸上競技ができないので、代わりにクロカンをやるという感じでした。ちょうど小学4年生からですね」
中学へ進んでも同じように夏は陸上、冬はクロカンというスタイル。陸上部では中長距離競技をしていたという古澤さん、「どちらかと言うとクロカンのほうが好きで、楽しかったんですよね」と振り返ります。「スキー部やクロカン部というのがなかったので、単純にスキーが好きな人が集まってワイワイやっている感じだったのが良かったのかもしれません」と続けます。
また、古澤さんのお父さんがクロカンに対して熱心で、子どもたちのコーチのような存在だったそう。旅館の周りにある田んぼに雪が降り積もると、お父さんが練習のためのコースを作り、ライトアップをして夜も練習ができるように設営。さらに練習が終わると子どもたちにご飯を食べさせ、最後は温泉に入らせ、送っていくということをしてくれていました。
「父はクロカン選手でもなければ、競技をやっていたわけでもないのですが、大会についてきてくれるなど、私たちのために一生懸命サポートしてくれました。きちんとした指導者がいるガチガチの部活動というより、クロカン好きな子たちが集まってワイワイという雰囲気でした。私は4姉妹なのですが、クロカンをずっとやっていたのは私だけで、父と一緒にいる時間が長かったのは私だったと思います」
のびのびとクロカンを楽しんだ中学時代を経て、地元の高校へ進学。そこで、はじめて「スキー部」に所属します。
「これまでは陸上の冬のトレーニングという感じでクロカンを楽しんでいましたが、高校に入って本格的に競技として取り組むように。どちらかというと選手としては遅いほうですね」
とはいえ、指導してくれる担当の先生が在籍していたのが1年ほどだったそう。「ほかの学校との合同練習や、県でやっている練習に参加させてもらい、そこで指導してもらうような感じでした」と話します。それでも「クロカンが好きでしたね。部活のメンバーが子どものころからずっと一緒にやっていた仲間だったというのもあって、楽しかったんですよね」とニッコリ。
最後の国体で好成績をおさめたのがきっかけとなり、青森県の企業チームへ
高校3年になり、進学か就職かとなった際、進学を考えていたという古澤さん。クロカンの選手としては、県内では1位、2位の成績を残していましたが、全国で見ると20~30位台に位置しているレベルでした。
「ところが、最後の年の国体で初めて3位になったんです。そしたらそのとき、青森県のコーチが来ていて、弘前市に企業チームを作るから高校を卒業したら来ないかとスカウトされたんです。すでに1人、地元出身の強い選手が所属することは決まっていたそうなんですが、もう1人探していたとき、たまたま隣の県に表彰台にのった子がいるということで…」
そして、古澤さんは高校卒業後、青森へ行くことに決めます。新しくできたチームは、弘果弘前中央青果(弘果スキーレーシングクラブ)。選手は古澤さん含め2人。専門のコーチのもと、練習の日々が始まります。
「青果市場だったので、入社から1カ月くらいは午前中に市場の仕事を経験させてもらいましたが、午後からは練習。そのあとは朝からずっと練習し、合宿に参加する日々でした。企業チームに入るということは、とにかく成績を残すことが重要。オリンピックを目指すなら、入社から3年の間に全日本チームの5人の枠に入らないとならなかったので、そこに目標を設定して頑張りました」
クロカン漬けの日々、辛くなることや放り出したくなることはなかったのでしょうか。
「中学卒業までは楽しくのんびりやっていたし、高校も毎日コーチがついてびっちり習っていたわけでもないので、ほかの選手よりも本格的に習うのが遅かった分、新しい発見が多く、やったことのないこともいっぱいあって、すべて楽しかったんですよね」
できない、わからないところからのスタートで、1年目はキツイこともあったそうですが、合宿でトップ選手たちを間近に見る機会が増え、彼らの真似をし、専門のコーチ陣に教えてもらったことを必死でこなしていると、少しずつ成績が上がっていきました。
「結果が出ると次も頑張ろうって思えるので、3年間はとても楽しかった」と振り返ります。
全日本メンバーに選ばれ、海外の大会へ。オリンピックにも2大会連続出場
全日本のジュニアメンバーに選ばれ、リレーメンバーとして世界大会で2位に入賞したことを機に、念願の全日本チームに入ることができます。「その5人に入るのがとても大変だったのですが、そこに選ばれてはじめてワールドカップや世界の大会のポイントゲームに出ることができます。今は割と海外の大会にも参加しやすい時代になりましたが、当時はまだ、まずは国内で必死にしのぎを削ってから海外へという時代だったので必死でしたね」と古澤さん。シーズンがはじまると、海外で連戦の日々。オリンピック出場に必要なポイント獲得のため、長いシーズンを戦い続けます。
そして、1998年(平成10年)の長野オリンピック、見事スケーティング(フリー)30㎞の代表に選ばれ、出場を果たします。さらに4年後のソルトレークシティー大会にも、スケーティング(フリー)15㎞出場とクラシカルの2種目に出場しました。
「ひとつの目標ではありましたが、自分の中ではオリンピックもワールドカップやほかの大会と同じ感覚でした。たくさんある大会の一つという感じでした。ただ、長野のときは地元開催ということもあって、応援がとにかくすごかったというフワッとした記憶しかないんです(笑)」
長野オリンピックを終えたあたりが選手としてのピークだったと思うと古澤さん。全日本の中でもベテランとなり、ソルトレークシティーが終わると、「自分を押し上げるものがなくなって、もういいかなという気持ちになっていた」と引退することに。会社からはコーチとして残ってほしいと言われましたが、「そのときはコーチになるとかも考えられなくて、一度クロカンから離れよう」と会社を辞め、秋田へ戻ります。
秋田の実家へ戻ったあとは、縁あって札幌のスポーツショップに勤務
「そのころ、アスリートのセカンドキャリアについて教えてくれる人もいなくて、だいたい選手を辞めると競技自体から離れる人が多かったんです。私もスキーしかやってこなかったから、コーチとして残ってと言われることがどれだけありがたいことかその時は分かっていなかったんですよね。とりあえずなんとかなるだろうと実家に戻って、旅館の手伝いなどをしていました」
しばらくすると、札幌にあるクロスカントリースキーやランニングのアスリート向けの専門店「ニッセンスポーツ」から、「クロカンの競技のことが分かって、パソコンができる人を探しているから、よかったらどう?」と声がかかります。古澤さんは、「せっかくだからやってみようかな」と札幌へ行くことを決めます。ちょうど2002年、28歳のときでした。
社員として事務の仕事や店に来るお客さまの接客をしていた古澤さん。お客さまから「クロスカントリースキーの道具を買っても使い方がよく分からない」という声をうけ、月に1、2回だけ会社の仕事として使い方を教え始めます。
「これが皆さんにすごく喜んでもらえたんです。私も人に教えるのって楽しいなと思いはじめて…。参加してくださったお客さまたちから、『教わってやるとおもしろい』と言っていただいたのをきっかけに、週1回、クラブ活動的に集まって活動することになりました」
選手時代の学びや経験を生かし、「8spハチスポスクール」をスタート
2年ほどニッセンスポーツとしてこの活動を続け、そこから独立するような形で「8spハチスポスクール」を立ち上げます。札幌市内の公園で行うクロカンの体験レッスンの指導などのほか、夏場のトレーニングであるランニングなども教えるようになり、ニッセンスポーツを退職後は、さらに活動の幅が広がり、医療機関でリハビリを兼ねたウォーキングの指導の依頼なども受けるようになります。
選手時代に世界レベルの選手たちとどう戦うかを常に考え、体や筋肉のこと、動作理論などを自ら積極的に学んだという古澤さん。「それらを自分でやってみて実感しないと納得できない」と実際に体を動かして得たものが、人に教えるようになって大きく役立っていると話します。また、その経験にあぐらをかくことなく、今も常に学び、追求する姿勢を大事にしています。
「どうすればより良くなるかを考えるのが面白いんです。そして今は、それをどう伝えれば分かりやすいかも常に考えています。一人ひとりに分かるように伝えることの大変さと大切さを日々感じていて、相手が理解しやすいように表現を変えるなど、工夫しています」
昨年、オリジナルメソッドを発表。これからもクロカンの魅力を広めていきたい
現在は、80代の方から小学校1年生まで幅広い層の人たちに、それぞれの目的や目標に応じて、クロスカントリースキーやランニング、ウォーキングのレッスンを行っています。個人レッスンのほか、グループやサークルのレッスン指導、学生の部活動の指導、公園などで行われている体験レッスンも手がけています。
ハチスポで学んでいる生徒さんたちから、「教科書や教本のようなもの、もしくは動画があると、レッスンがないときも自分でそれを見て練習ができるんだけど…」という声が増えたのを機に、2023年(令和5年)にクロスカントリースキーのオリジナルメソッドを発表します。テキストと動画があり、テキストにはクロスカントリースキーの道具の話から走法についてまで詳しく書かれています。また、基本的な体の使い方なども紹介されており、ほかのスポーツをやっている人にも役立つ内容になっています。
「クロカンは、ほかのスポーツの選手がトレーニングの一環として取り入れられることも多いスポーツ。また、生涯楽しめるスポーツでもあります。だから、力任せにやみくもに体を動かすのではなく、体の正しい使い方や技術をマスターすることで、ケガなく、より長く、より楽しく続けられると伝えていきたいです。テキストや動画もそのひとつとして活用してもらえたらと思います」
そのテキストの冒頭のあいさつ文に、「子どもも大人も無限の可能性を秘めている。『体格が劣っているから』『体力がないから』『もう歳だから』という諦めは不要。自分を信じられる助けさえあれば伸びしろは大きくある。ハチスポスクールはそのためのサポートと指導を続けていく」という旨が書かれています。8spの8を横にすると、∞(無限大)に。体を動かすのは生涯に渡って大事ことであり、そのためのスポーツはどこからでも(いくつからでも)始められるし、体の使い方さえマスターすればずっと続けられるという思いが込められています。
「クロカンは長く続けられるスポーツであり、健康にも役立ちます。健康であることは生活を豊かにします。だからこそ、ケガをしない体の使い方を習得し、体を動かす楽しさをひとりでも多くの人に伝えていけたらと思います」
選手時代からいろいろな縁があってクロカンを続けることができ、今もまたたくさんの縁でスクールを続けられていると話す古澤さん。「本当にありがたいです。クロカンを続けていたことで、私はたくさんの人に出会うことができました。これからはそのクロカンの魅力を皆さんの健康のためにも広めていきたいです」と最後に話してくれました。