神田勲(いさお)さんは、海外向けのEC事業をおこなう「HOKKAIDO TRADING 合同会社」を経営しています。「自分から何かをするタイプではなかった」と語る神田さん。東京での就職や、海外留学などの経験のきっかけになった出来事や、札幌に戻ってEC事業を始めた理由などを伺いました。
引っ込み思案だった少年が大学時代に覚醒!?
札幌で、越境EC事業を展開する会社を経営しながら、個人でもさまざまな活動をしている神田勲さん。今の姿からは想像できないほど、子どもの頃は引っ込み思案な性格でした。
「小学生の頃は、周りの目をすごく気にする子どもでした。ちょっとかっこつけたいという気持ちもあって、目立っている子に近づいてみるものの、ただ近づくだけで(笑)。目立つ子のまねをすることはあっても、自分から何かをするタイプではなかったですね」
中学生になっても、基本的に引っ込み思案な性格は変わりませんでした。進学先は、少しでもかっこいい姿をと思い、周りからは難しいと言われていた高校を目指すことに。一生懸命に勉強して合格を果たしたものの、いざ入学してみると、他の生徒との学力レベルのギャップに苦しむこともあったと言います。そんな神田さんが中学生の頃からずっと続けていたのが器械体操でした。
「頑張って練習していたので上達もするし、充実した時間でしたね。高校時代はあまり面白くなかったけれど、体操をしているのは楽しかったです」
そして迎える大学時代。体操がきっかけで、神田さんは今でも忘れられない経験をします。
「大学で、ある友人と再会したんです。彼は他の高校の体操部で、大会で何度か会ったことがありました。大学に体操部がなかったので、その友人と一緒に、体操部をつくろうという話で盛り上がって。とりあえず愛好会をつくろうということになり、部員集めから器具の調達、部室の確保まで、全部自分たちでやったんです。今考えたらすごく大変なことをやっていたなと思いますが、当時はとにかく練習がしたくて、無我夢中でしたね」
大学生活を全力で楽しみながら、自分たちで部活をつくって運営する。その経験が今の経営にもつながっていると神田さんは語ります。
「その友人と会ってから、頭の中で何かが目覚めてしまったのかもしれません(笑)。自分で何かを生み出したい、動かしたいと考えるようになりました」
「いつでも戻れる」という軽い気持ちで東京へ
大学卒業後、神田さんは東京の出版系販売会社に就職します。
「うちは、父・祖父が公務員だったので、高校までは漠然と自分も公務員になるんだろうと思っていました。ところが、大学時代に部活づくりを経験して、民間企業で自分を試したいと思うようになったんです。とりあえず東京の会社に就職して、帰りたくなったらいつでも北海道に戻ってくればいいと思っていました。今考えると、すごく甘いですよね(笑)」
東京での社会人生活をスタートさせ、最初の頃は札幌との気候の違いに苦労したそうです。一方で、全国のさまざまな地域から集まってきていた人たちと話ができたのはすごく刺激を受け、良かったことだと振り返ります。
「札幌の外に出てみないと分からないことって、たくさんあるんですよね。だから、一度出てみるのもいいんじゃないかと思います」
会社では、短い期間にさまざまな仕事に携わりました。最初に配属されたのは、契約書や請求書を扱う事務系の部署。ほとんどがベテラン社員で、新入社員は神田さん一人でした。その後、2年間に部署内で3つの課への異動を経験します。また、会社から推奨されて、販売士1級の資格も取得しました。
「一般にはあまり知られていませんが、販売士検定は日本商工会議所が実施する公的資格なんです。小売や流通業界向けの代表的な資格だといわれています。簿記の知識も一通り身に付きますし、色々なマーケティング手法も学べるので、どの業界で働こうと取っておいて損はない資格です」
事務系の仕事を2年間ほど経験した頃、神田さんは営業部門への異動を命じられます。配属されたのは、大手書店へのルート営業を担当する特販営業部。そこで神田さんは、書籍業界の厳しさを目の当たりにします。
「思った以上に書籍が売れていなくて、これはまずいんじゃないかと思っていましたね」
それでも仕事を続けていたある日、神田さんは不思議な光景を見ます。
「外国人が日本のアニメフィギュアをじーっと眺めているのを見かけたんです。その後、海外で日本のフィギュアが人気があると知り、『これは売れるかもしれない…』と思い、個人で海外向けにECで販売してみたんです」
その後、同じように個人輸出をしている人に誘われて、フランスで開催されているJapan Expoに出展することに。
「みんなでチームを組んで参加したんです。自分たちで仕入れた商品を現地で売り、売上を旅費に当ててタダで旅行しようという計画でした。旅費分ギリギリくらいの利益を出せて、『俺、フランスにタダで旅行したんだぜ!』って感じで面白かったですね」
これが、今の仕事を始める最初のきっかけになったと話す神田さん。頭の中には退職の文字が、思い浮かび始めます。
会社を退職し留学。そして越境ECの道へ
退職を考え始めた神田さんが会社を辞める理由は、出版業界の将来へ不安を覚えただけではありませんでした。
「そもそも、入社を決めたのは、ただ東京で働きたいという理由だけで、将来の目標もなかったんですよね。戻りたくなったら北海道に帰れるというのも、その時札幌でやりたいことがなかった私には甘い考えだったと分かりました。それで、もともと英語が好きだったのもあり、留学しようと考えたんです。これからは2カ国語や3カ国語が話せるのが当たり前になるし、そのためには日本より海外で勉強した方がいいと思いました」
留学することに、故郷の両親は何も言わなかったのでしょうか。
「両親からは大反対されました。そもそも、無理だろうと思っていた東京での就職が決まってホッとしていたところに、今度は突然辞めると言い出したわけですから。でも、自分としては、今辞めないとまずいという気持ちが強かったので、なんとか両親を説得して分かってもらいました」
退職後神田さんは、すぐに1年間オーストラリアに留学します。
「オーストラリアに出発する前、初めて父から仕事の話を聞いたんです。そのときの、『自分はいつも北海道のことを考えて働いている』という父の言葉が、ずっと頭に残っていて。私にも、自分の得意なスキルを生かして、北海道に貢献できることがあるんじゃないかと思ったんです」
帰国後、札幌に戻った神田さんは個人事業で越境ECをスタートさせました。扱う商品は、北海道の商材です。
しかし、東京で働いていた神田さんには、札幌で仕事をサポートしてくれる知り合いはほとんどいませんでした。そこで、神田さんはまず1級販売士の資格を活かし講師登録し、販売士講師としての仕事を始めます。やがて、札幌商工会議所でセミナーを開かせてもらったりしながら少しずつ人脈を広げていきました。
ただ当時の先が見えない状況で、どのようにモチベーションを保っていたのか尋ねてみました。
「今もそうなんですが、常に、『うまくいく』と思ってやっているんです。これまで自分がいろいろなことを成し遂げてきたのは、すべてが必要なことだったからだと。自信過剰な部分もあるとは思いますが、そうでなければ会社の経営者は務まらないと思っています。不安がないわけではありません。でも、周りにはもっと修羅場をくぐっている先輩経営者の方もたくさんいらっしゃるので、自分はまだまだ甘い方だと思っています」
コロナ禍を乗り越えて会社を設立
個人事業主時代は、越境ECが流行り始めた頃で、市場はいわゆるブルーオーシャン状態でした。
「一人ではさばききれないくらいの数が売れました。主に売れていたのは、北海道のお菓子です。アメリカやオーストラリアなどの英語圏の国を中心に販売していました」
ところが、事業を始めて8年。コロナによって、海外への配送料が数倍に跳ね上がり、売れば売るほど赤字になってしまうという事態に陥ります。さらに、航空便が飛ばなくなったため、メインの取引先だったアメリカへの販売をすべて中止することになりました。多くの業界が思うように動きを取れなくなったコロナ禍。神田さんはどのようにこの時期を乗り越えたのでしょうか。
「販売士資格の講師として、販売士協会や商工会議所で単発の講習会を開いたり、アルバイトとして英語を教えたりしながらしのいでいた感じですね。あとは、ECなので実店舗がなかったというのが大きかったかもしれません。やはり店舗があると維持費がかかってしまいますし。なるべく在庫を持たないと決めてやっていたのも幸いしました」
コロナをきっかけに、別の事業に舵を切った人も多い中、越境ECの仕事を諦めなかった理由を聞いてみると、「コロナが収まればなんとかなるという気持ちでした。でも、正直、今さら違うことをやるのは面倒くさかったんです(笑)」と、本音もぽろり。そして、コロナ禍が落ち着き始めた2022年、神田さんは個人事業から法人化へと踏み切ります。
「仕入先と話をするときに、法人だと反応がやっぱり違うんですよね。たとえ従業員の人数が少なくても、やっぱり個人より会社の方が信用度が高いんだと感じました。ただ、会社にすると当然いろいろな経費がかかるので思ったより大変ですが、そこは仕方ないですね(笑)」
法人化しても、仕事のメインとしているのは、北海道商材の販売です。ただ、最近はインバウンドの増加もあり、大手を含めてさまざまな会社が越境ECに乗り出してきているとのこと。ライバルが増える中で、いかに独自性を出すかが課題です。
「それまで、アジア圏はまったく視野に入れていなかったんです。でも、コロナをきっかけに販売先をアジア圏にも移していきました。今は、台湾・タイ・シンガポール・アメリカ・オーストラリアが主な発送先です。台湾向けの越境ECを北海道でやっている人はまだ少ないので、そこは私たちの強みかもしれません。最近は、中東やヨーロッパからも問い合わせをもらうことがあります。いろいろクリアしなければならないハードルがあるのですぐには対応できませんが、挑戦してみたいという気持ちはあります」
北海道の良さを世界に。それが自分の使命
神田さんは、仕事上での苦労を、日本の常識が通用しないことだと話します。しかし、購入してくれたお客様からの「おいしい」「こんなお菓子は今まで食べたことがない」という言葉が、仕事をする上で大きなモチベーションにもなっているそうです。そこで今後は、どのようなことに挑戦してみたいと思っているのか聞いてみました。
「今後も、北海道の商材を扱い続けることですかね。もっと利益を上げられる商材はあるかもしれませんが、自分の地元の良さを伝えたいという気持ちが軸としてあるんです。それが自分の使命とまでは言わなくても、そういうプライドとか、大切にしたい気持ちがあったからこそ、コロナ禍でも耐えてやってこられたんだと思っています」
将来は、海外との人材交流にも貢献したいと語る神田さん。札幌には多くの留学生が訪れているので、自分の会社を外国人が活躍できる土台にしたいと考えています。
「文化の違いもあるし、簡単ではないと思います。何よりお金が必要です。だから、まずは、事業で利益を出すことが一番の優先事項だと思っています。また、北海道は『良いものがあるのに、売るのが下手』と言われているので、販売士の活動を通して、『良いものを上手に売る』『1社でも多く北海道の企業が海外へ目を向けるきっかけをつくる』ことも実現したいです。プライベートでは、今もやっている大学の体操部のコーチや、中高生への英語指導などの活動は続けていきたいですね。若い人と話すのが好きなんです。楽しいですし、気付かされることも多いので、勉強にもなります」
北海道の良さを世界に伝えたいという強い思いを持つ神田さんですが、事業の拠点は必ずしも札幌にこだわらないとも言います。
「場所に縛られずに働けるのが、この仕事の醍醐味でもあり、経営者としての面白さだとも思っています。別に、積極的に札幌から離れたいわけではありませんが、仮に拠点を移すことで生活や周囲との関係がもっと良くなるのであれば、札幌にこだわる必要はないかなとは思います。と、言いつつ札幌にはいそうな気はしますけどね(笑)」
最後に、北海道や札幌の魅力について聞いてみました。
「ありきたりですが、やっぱり食べ物ですね。東京やオーストラリアに行ったときに、今までどれだけおいしいものを食べていたのかが分かりました。ほかの国にもおいしいものはあるでしょうが、少なくとも自分が経験した範囲で言うと、北海道の食べ物はやっぱり別格です。特殊な場所としてパッと思い浮かぶところは、大通公園のビアガーデンがいいですよね。ああいう場所でビアガーデンをやっているところは、海外でも日本でもあまりないと思います」
「外に出て初めて気付けることがある」。インタビュー中、何度かこの言葉を口にしていた神田さん。東京やオーストラリアで暮らした経験から、地元札幌の良さを誰よりも感じているのかもしれません。札幌にいながら世界を相手に仕事をするというスタイルは、多様な働き方を模索する人にとって1つのヒントになりそうです。今後も、世界と札幌をつなぐ架け橋として活躍してくれることを期待しています!