世の中にはゼロをイチにするのが得意な人、イチを10や100にするのが得意な人がいます。どちらも社会の発展や課題解決には必要ですが、今回紹介する上野晧平さんはゼロをイチにするのが得意なタイプ。2019年に立ち上げた一般社団法人も、2021年に創業した株式会社も、まさにその得意を表す「Zero Next One」という名を付けています。スポーツ分野を中心に事業を展開している上野さんのこれまでの歩み、そしてこれからの目標などについて伺いました。
チャレンジするのが好きなサッカー少年。大学でフットサルに転向
札幌生まれ、札幌育ち、現在36歳の上野晧平さん。今回取材場所としてお借りしたのは、上野さんの母校、厚別区にある北星学園大学附属高校です。上野さんはここでサッカー部に所属。「僕がいた頃と違って今は人工芝なんですよ。すごいですよね」と話す、新しいグラウンドが見える場所でインタビューをさせていただきました。
小学3年生からはじめたサッカーに夢中だった10代。そのころからチャレンジすることが好きだった上野少年は、「当時、高校のサッカー部もそれほど強いわけでなく、僕自身も劣等生だったんですけど(笑)、あえてサッカー部の部員が200人以上いた国士舘大学へ進むことにしたんです」と話します。
ディフェンスだった上野さんは、「身長がある程度ないと数いる選手の中で活躍するのは難しい」と考え、大学1年の途中でフットサルに転向します。フットサルはサッカーよりも狭いコートの中、5対5で行う室内サッカーのような競技。動きのスピードや試合展開などはバスケットボールに近いとも言われています。
「全員で攻めて、全員で守るフットサルは、身体能力うんぬんより、戦術がより重要で、チームメイトとのコミュニケーション力もとても大切なんです。そういうところが自分の性には合っていたかなと思います」
当時、大学にフットサル部はなく、「ないなら作ればいい」と上野さんは仲間を集めてフットサル部を立ち上げます。大会にも出場して成績もしっかり残し、上野さんはより上を目指そうと関東地区の社会人チームのセレクションを受けます。
命の限り、面白いことをやる。サバイバルなインド旅行で学んだこと
「実はそのころ、1人で海外にしっかり行ったことがなくて、バックパッカーみたいな旅をしてみたいと思っていたんです。たまたま新聞を開いたらインドのことが載っていて、インドに行ってみようと思って、片道チケットでインドに行く準備をしていたんです。それで出発前に、社会人チームのセレクションがあって、ダメ元で受けたんですけど、インドにいる間に受かりましたと連絡がきて(笑)」
日本に戻ったら参加する意向を社会人チームに伝えた上野さん。英語を話すこともできず、インドに着いたその日にガイドブックを盗まれ、公園で寝泊まりするところから始まったという約4カ月に渡るサバイバルなインド旅行は、上野さんの人生に大きく影響を与えます。
「ガンジス川の近くに滞在していたとき、川を流れてくる死体もあれば、近くで沐浴している人がいたり、洗濯している人がいたり…。そこには生と死の両方があって、インドの人たちのタフさも実感。いかに自分が恵まれた環境の中で育ってきたのかが分かりました。だらだらやっている場合じゃないな、命の限り、面白いこと、やりたいことをやろうと思いました」
フットサルの社会人チームを経て、中国・上海のプロチームへ入団
帰国後、上野さんは大学に通いながらフットサルの社会人チームでプレー。試合に出るうち、徐々にプロを意識し始め、「大学を出たら、フットサルでご飯を食べていきたい」と思うようになったそう。中国のプロチームへ行った先輩から、セレクションを受けてみないかと声をかけてもらい、2012年に上海のプロチーム「上海徐房」へ入団します。
「イタリアやブラジルなど世界各国から選手が集まっていて、面白かったです。上海のチームで僕が学んだのは、自分自身をブランディングしていくということ。月給制だったんですが、それがみんなに発表されるシステムでなかなか刺激的でした。交渉も自分でやらなければならないので、プレーで活躍することはもちろん、いかに自分を高く評価してもらうかブランディングすることを学びましたね」
給料交渉を自分で行うため、中国語も自然と身に着いたそう。「日常生活に困らない程度の会話はできるようになりました」と話します。
2年半、上海のチームに在籍し、その後イタリア人のチームメイトと一緒にローマへ渡ります。しかし、中国のチームと違い日本人選手の価値がとても低く、交渉がまとまらず日本へ帰国。
「ちょうど母親の体調も悪く、高校を出てからずっと離れて暮らしていたので、しばらくはそばで母を支えようと思いました」
母校のサッカー部コーチを務めたのち、地域おこし協力隊で浦河へ
帰国すると、高校時代の恩師からサッカー部のコーチをやらないかと声をかけられ、週に2~3日、後輩たちの練習を見るようになります。北海道の高校は冬になるとサッカーの大会がないのですが、ちょうど高校生向けのフットサルの大会ができ、「せっかくだから出てみようか」と冬は本格的にフットサルに取り組むことに。上野さんはサッカー部のヘッドコーチのような形で生徒たちの指導にあたり、全道大会優勝へ2回も導き、2年連続で全国大会にも出場します。
2018年3月にコーチを退いた上野さんは、「次に何をしようか決めていませんでした。当時は札幌で元プロのフットサル選手といえば上野と言われ、あちこちからコーチをやらないかと声もかけていただいたんですが、裏を返せば僕はこれまでサッカーとフットサルしか知らない。ふと、いつまでも元プロのフットサル選手、フットサルの指導者としてやっていくには限界があるなと思ったんです」と振り返ります。
何をやろうか考えていたとき、地域おこし協力隊という制度を耳にします。札幌を離れ、誰も知り合いがいない場所に身を置き、何かにチャレンジするにはちょうどいいかもしれないと、道内の市町村でスポーツ分野の協力隊を募集しているところを探します。
ちょうど2つの自治体でスポーツ分野の募集がありましたが、縁があり、浦河町への赴任が決定。合宿誘致やスポーツイベントなどのミッションをこなすほか、地域のスポーツ振興にも目を向けます。
「もちろん子どもたちへのサッカー教室などもスポーツ振興ではあるんですが、それだけではなく、違うアプローチはないかなと模索していました。僕、おばあちゃん子だったんですけど、それもあって、地域の高齢者の方たちが健康でいるのって大事だなと常々思っていて、高齢者の方たち向けの運動や筋トレの教室をやってみようと思ったんです」
高齢者の運動教室を開催するなど、ゼロをイチに。一般社団法人も設立
初めてのことなので、手探りしながら、周囲とコミュニケーションを取りながらのスタート。ところが始めてみると大盛況となり、参加者がどんどん増え始めます。手応えを感じた上野さんは、浦河町以外でも高齢者向けの教室を開催してみたいと考えるように。副業がOKだったこともあり、上野さんは協力隊の傍ら、1年後に「一般社団法人 Zero Next One」を立ち上げます。
その名前には、これまで上野さんがやってきた「ゼロをイチにして、前に進んできた」という思いが込められています。大学でフットサル部を立ち上げたり、高校の後輩たちを全国大会へ連れて行けるまでに育てたり、地域の高齢者の方たちに喜ばれる教室をスタートさせたり、大小さまざまなゼロイチを作ってきました。
そして、ロゴマークはカメ。スポーツに関連することを多く手がけているのに、カメというのは意外な印象ですが、「一歩ずつ歩みを進めていれば、プロ選手にだってなることができる。そんな自分の経験からカメをロゴにしました。ゼロをイチにするのは大変だけど、歩みを止めなければできると信じているので」と話します。
コロナ前は、高齢者向けの運動教室のほか、人気のユーチューバーを呼んだスポーツイベント、浦河の自動車教習所を借りて子どもたちのストライダーの大会開催など、活動も活発でしたが、コロナ禍に突入すると、それらがすべてストップに。
「特に協力隊の任期の最終年は、高齢者の方たちとは会うこともできなくなって、このまま終わってしまうのかなとも思ったんですが、この中でもできることは何だろうと考え、いつも参加してくださっていた方たちに手紙を送ったり、家でできる運動プログラムをそれぞれ作ったりしました。そして、公式LINEを作って、そこに登録してもらい、オンラインでも運動ができるように工夫しました」
ただ黙ってやり過ごすのではなく、どうすればいいか考え、行動に移すところは、さすが「ゼロをイチ」にするのが得意なだけあります。
できないをできるに変える後押しを。面白いと思うことをどんどんやっていきたい
地域おこし協力隊の任期を終えた上野さんは、2021年に札幌で「株式会社Zero Next One」を創業します。こちらのロゴは、これまた意外なカバ。「動物が好きなんですよね(笑)。カバって、のんびりしていてかわいくも見えますけど、実はすごく強い動物。いざというときに強い力を発揮できたらと思って、カバをロゴにしました」と話します。
「人生の中で、できないをできるに変えるってすごく重要だと思っています。それは子どもも高齢者もアスリートもみんな同じで、そのできないをできるにするための後押しを、仕事を通じてしていきたいなと思っています」
高齢者向けの運動教室などは浦河の一般社団法人で運営し、株式会社のほうはスポーツ分野を中心にイベント事業や講演会を手がけるほか、グッズの制作や販売なども行っているそう。
物販に関しては、学校の部活のユニフォームやサッカーボールなども扱っていますが、「こんなのがあれば便利なのに…」という保護者目線で考案したオリジナルの応援グッズも提案から行っています。
今年から本腰を入れてやっていきたいと上野さんが考えている事業が、アスリートの育成事業。「プロアスリートのプロとしての在り方やブランディング、マネジメント的なことをトータルで教えたい」と話します。自身の経験を生かし、周りがプロアスリートに何を期待しているか、どう振る舞えばいいのか、自分たちの給料がどういう形で出ているのか、さらにセカンドキャリアのことも含めて伝えていきたいと考えているそうです。
「僕は常に何かにチャレンジしていきたいタイプ。しかも、最初から勝てるという試合はしたくない(笑)。自分にプレッシャーをかけていかないと、尻に火がつかないんですよね。スポーツだけでなく、僕が面白いと思うことをどんどんやって、未来を創っていきたいと考えています」
「命の限り、面白いこと、やりたいことをやる」。インドの旅での決意通り、軽やかに面白いと思うことをこれからもどんどん形にしていくのだろうなと感じるインタビューでした。