あしたをつくる、ひと、しごと。

  1. トップ
  2. 仕事や暮らし、このまちライフ
  3. 地域を見つめる建築家が、札幌で建築をする理由

地域を見つめる建築家が、札幌で建築をする理由

2024.4.26

share

藻岩山山頂のアートオブジェ、大通西にある白を貴重としたセレクトショップ…札幌に住む人なら一度は目にしたことがある建築物たち。これらはアカサカシンイチロウアトリエの建築家、赤坂真一郎さんが手がけました。同アトリエは、設立から今年で24年目を迎えます。建築に対する想いの変化や、様々な地域を見たからこそ理解できた札幌の魅力を赤坂さんに伺いました。

突き詰めた「好き」が、未来の扉を開く。

1970年、札幌市西区で生まれた赤坂さんは、幼い頃から絵を描くことが好きでした。しかし、構図を考えるまでの過程は楽しいのですが、色を塗るとイメージ通りにならないことが多く、それが悩みの種だったようです。中学生の時、授業で描いたポスターがきっかけとなり「グラフィックデザインの仕事がしたい」と漠然と考えるようになったと言います。

「デザインに興味があったものの、高校はデザインには関係のない、自宅から近い普通高校を選びました。それでも、音楽や演劇など文化を語る友人たちとの出会いがあり、それまで知らなかった分野にも関心を持つきっかけとなりましたね」

音楽への興味は特に強かったそうで、学校帰りに大通にあるレコードショップに行くのが習慣になっていきました。当時音楽の録音先は、カセットテープが主流。レコードやラジオから流れる音楽を自分のラジカセで録音し、オリジナルの音楽リストを詰めたカセットテープを作ることに赤坂さんは夢中になっていきました。

「当時は、ラジオでどんな音楽が流れるかを雑誌で調べる時代でした。そのために刊行されていたのが『FM STATION』という雑誌です。この雑誌の表紙デザインを手掛けていたのが鈴木英人さんという方で、私はこの方のイラストが大好きでした」

表紙の鈴木英人さんのデザインをはじめ、色々なデザイナーが手がけた広告が並ぶ「FM STATION」を読んでいくうちに、「デザインの仕事をしてみたい」と強く思うようになった赤坂さん。しかし、同時に「僕には無理なんじゃないか」とも思ったそうです。

「『もうすでにグラフィックデザインの分野では、こんなにすごい人がたくさんいる』と思ってしまったんですよ。自分が今から努力して、この雑誌に載っている人たちと肩を並べて仕事をするのが想像できなかったんですよね」

しかし「グラフィックデザインは無理」と諦めたことで、赤坂さんの視点は別の方向に向いていきます。

「建築と映像に興味が湧いていったんです。僕はその頃、札幌で衝撃を受けるような建物を見たことがありませんでした。四角いビルや普通の家ばかりで、もっと魅力的な空間体験をしたいという衝動に駆られてしまった。もし東京に住んでいたら、こういう欲求は生まれなかったかもしれませんね。映像も、まだ見たことのないものを作ってみたいと思ったんです」

運命の分かれ道は、大学受験の時に訪れます。赤坂さんは、美術コースがある国立大学と北海学園大学工学部建築学科を受験しました。結果は、美術コースは不合格、建築学科は合格というものでした。

好奇心や焦り…さまざまな気持ちが交差した大学時代。

建築学科へ進学後、赤坂さんは大学の図書室でたくさんの建築の本に触れます。

「世界の建築を見ると、すごい場所にすごい形で建っている建物がたくさんありました。それで建築も表現方法のひとつなんだって気づきました。こうじゃなきゃいけないって決まりもないし、アプローチの多様性に気づけたんですよね。だって『美しい』とか『建物の中に入ってみたい』と思わせる建物って、すごいじゃないですか」

赤坂さんが受けたカルチャーショックは、そのあとも続きました。しかし、不思議と「実際に建物を建ててみたい」とは思わず、もくもくと絵を描いていたと言います。

「サグラダファミリアのような建築物のスケッチばかり書いていました。その頃、周りの友人たちは、設計事務所などでインターンを始める頃で『暖炉の設計を任せてもらえた』などという話を聞くと、『すごいな』と思う反面『建築的な経験がないのに、そんな責任重大なことはできない』と感じていた部分もありました」

赤坂さんは、その後大学4年生まで「責任が重くて、怖い」という理由で、インターンに行くのを避けていたそうです。ただ卒業も近くなり、何も現場を知らずに就職するのもまた怖いなと思い、札幌市内にある、いくつかの設計事務所でインターンを経験します。

「この時期、特に印象に残っているのが、インターン先の先輩方とランチをしたときに『赤坂くん、福岡のネクサスワールド(世界の建築家たちが福岡にデザインした集合住宅群)ってどう思う?』と聞かれ、全くわからなくて(笑)。毎回ランチの度に知らない建築の話が出てきて、話題についていけなかったんです。『これはまずい』と本を読んで、猛勉強しました」

大学入学当初も本を読んでいたものの、それは好みや夢を膨らませてくれる建築写真が主でした。建築を建てた目的や、建築家の設計意図までは読み込んでいなかったのです。

「本の読み方を変えたことで、建物の形や構造にはちゃんと理由があることを理解できるようになったのは大きかったですね。偉大な建築家と呼ばれる人も、好きに建てているわけじゃないと、その時に初めて知ったんです」

着実に建築知識をつけ、就職先を考える時期を迎えた赤坂さんは、東京での就職を希望しました。東京なら大きい案件も多く、自由度の高い設計術を身につけられると思ったからです。大学の先生にも「就職は東京で、将来的には札幌に戻って設計事務所を開設したい」と伝えると、思いがけない言葉が返ってきました。

「『東京と札幌では断熱技術などが違うから、戻ってきてから札幌の建築方法を学ばないといけない。それに、札幌で新たに仕事を探すのも、人脈を作るのも大変じゃないかな?』と言われて、その通りだなと思いました。それで札幌で就職しようと決めたんですよ」

就職活動に励む赤坂さんでしたが、理想の設計事務所がなかなか見つからず、卒業を迎えます。しかし、この先に赤坂さんの建築人生に大きく影響する人物との出会いが待っていることを、まだこの時は誰も知りません。

縁が繋いだ、激動の7年間。

卒業後の就職活動で、ここだと思う会社を見つけた赤坂さん。その会社は、有限会社中井仁実建築研究所、代表は建築家の中井仁実(よしみ)さん。赤坂さんは、中井さんが造る建築が好きで、ずっと気になっていました。ただ中井さんが建築に対して非常に厳しい人だという風の噂を聞いていて、なかなか踏み出せなかったそうです。

「建築関係の人から『中井さんは厳しいぞ』と言われていて、ちょっと怖かったのが本音です。でも、惹かれてしまったんですよね。ドキドキしながら中井さんの事務所に電話して、面接を申し込みました」

建築に限らずクリエティブ系の仕事では、面接時に履歴書の他、ポートフォリオと呼ばれる自分の実績をまとめたファイルを持参します。建築系の学科卒の場合は、インターン実績やコンペの受賞歴などの他に大学で学んだことの集大成である卒業設計をポートフォリオに入れることが一般的です。

「緊張しながら事務所に向かい、ポートフォリオを見てもらいました。中井さんは、僕のポートフォリオを見ながらひとこと『卒業設計はどうしたの?』と聞いたんです」

この卒業設計は、大学4年生の冬に完成させる場合が多いです。しかし赤坂さんは、冬は部活動として打ち込んでいたスキーで多忙な時期だったため、卒業設計に時間をかけられず、満足いく作品にならなかったそう。そのため、ポートフォリオから卒業設計を外していました。

「卒業設計って、大学側が建築学会に提出して優秀な作品を決めてもらうんです。僕の卒業設計は入賞していないけど、中井さんは『赤坂くんの作品は見た。俺好きだったぞ』と言って、自分の手帳を見せてくれたんですよ。メモされたページには、本当に僕の名前があって…。そこで知ったのが、この時の審査委員を中井さんが務めていたことなんです」

偶然とはいえ、この縁がきっかけで「明日からうちに来ていいぞ」と中井さんから内定をもらい、赤坂さんの建築家人生が始まります。

「入社してすぐに大きな現場にでたんですけど、建築の専門用語がわからなくて、現場のおじちゃんに『こんなことも知らないの!?』と呆れられるほど、僕は力不足でした。中井さんも噂通り厳しい方だったので、図面を描いてもやり直しなんてしょっちゅうで。今だから言えますけど、辞めてしまいたいと思うことは何度もありましたね」

理想の姿に追いつけないもどかしさを抱えながらも仕事に邁進し、入社して3年がたったころ…。赤坂さんが担当した建築物が全国紙に掲載されたことで、仕事の幅が広がり始め、中井さんからも全幅の信頼を寄せられるようになりました。

「3年目以降は、仕事もだいぶこなせるようになっていたので、楽しいと思える余裕も出てきました。建築って当たり前ですけど、建物が建つまでに膨大な時間や予算が必要です。でも責任重大な分、完成した時の充実度は高くて、その緩急を楽しめるようになったのはそれくらいの時期からだったかな」

中井さんの会社で入社から7年間必死で技術を磨き、赤坂さんが30歳の時に自身の会社、株式会社アカサカシンイチロウアトリエを設立します。

札幌が好き。それはずっと変わらない

独立後、仕事が少し軌道に乗り始めたと感じたのは、事業を始めて3年目ごろからだと言います。徐々に仕事が増え始め、6年目には赤坂さんが設計した作品たちに注目が集まり、ドイツやポルトガルなどの海外の建築雑誌にも多数掲載。札幌で建てた邸宅などが海外へ発信されていきます。

世界からも注目される赤坂さんが、札幌にこだわる理由は何があるのでしょうか。

「札幌が好きだからです。四季もはっきりしているし、自然が近いのに都市の利便性もある。僕は仕事柄、いろいろな地域の暮らしや都市のなりたちを考察することが多いのですが、世界的に見れば、アメリカやヨーロッパも自然と大都市が隣り合わせで住みやすそうだなとは思います。ただ日本の大都市であれば、札幌が一番魅力的で暮らしやすいだろうなと僕は思っています」

しかし、一時期は「札幌で仕事をすることが不利」とも考えていた時期があったそう。

「例えば、庭とリビングを大きなガラスで開放的につなげるという建築は、寒冷積雪地域である北の大地には不向きな部分があります。ある日、タイの女性建築家に『タイは開放的な建築ができていいですね』と話したら、怒られてしまったんです。彼女に『風や雨、日差しに湿気…この気候と共存することが大変なのはわかっていますか?』と言われたときに、ハッと気づきました。『地域の特色を活かすのが、建築家の仕事なんだ』と。札幌をできない理由にしちゃだめなんですよね」

それからは、地域を活かす建築を愉しむようになり、札幌であれば豊かな自然を見渡せる大きな窓や経年とともに味がでて緑と調和していく外壁など、建物と環境が調和するような設計を心がけるようになります。

建築は「自分のため」じゃなく「誰かのために」

「札幌で衝撃を受けるような建物を見てみたい」と感じた青年時代から、ずっと赤坂さんを魅了しつづける建築の面白さについても聞いてみました。

「建築学科に入学した頃は、『自分が死んでも、作った建物は残るから』とよく話していた気がします。残った建物は、街を構成する要素にもなるので、僕がいなくなったとしても生きた証をモノとして残せることに面白さを感じていたのかもしれません。だけど、年を重ねて『建築によって地域をより魅力的にすること』にやりがいを感じるようになってきましたね。例えば僕が作った建物がきっかけで、そこに人が集まってコミュニケーションがうまれる。そこから次の世代に向けて何かを繋いでいけたら楽しいですよね」

赤坂さんのオフィスがある「トラム二ストビル」は、まさしくその考えが形になったものです。築40年の住宅を改修した建物は1階に飲食店、2階にギャラリー、3階にオフィスという構成で、この3箇所がうまく関係して、新しい出会いが生まれるように工夫されています。

「オフィスに営業に来た人が飲食店で食事したり、食事の後にギャラリーで開催されている個展に寄ってくれたりなど、それまで繋がりのなかった人たちがこの場所をきっかけに輪をつくってくれると嬉しいです。道路に面した外壁部分に空間的な凹凸をつくり、そこに街のにぎわいが留まるような建物をイメージしました」

札幌や建築について話す赤坂さんからは「この街や仕事が本当に好きなんだ」と、伝わってきます。最後にこれから挑戦したいことを聞いてみると…。

「まずは、他の地域の人が僕の建築物を見て『北海道で暮らしてみたい』と思えるような仕事をしたいです。まだまだ、北海道には建築を建てたいと思える魅力的な場所が無数にありますしね。あとは、自分で宿泊施設を経営してみたいかな(笑)。自分で土地を買って、設計して、お客さまに満足してもらうためだけの小さな旅館づくり。そんな夢もまた面白いかなと思っています」

世界を見てきたからこその視点で話す赤坂さんの話には説得力があり、私たち取材班にたくさんの気づきを与えてくれました。これからも札幌で、赤坂さんの建築物が街を彩り続けることを楽しみにしています。

赤坂真一郎さん

株式会社アカサカシンイチロウアトリエ 一級建築士事務所

赤坂真一郎さん

北海道札幌市中央区南5条西15丁目2-5 トラムニストビル3階

TEL. 011-596-0381

HP

Instagram

Facebook

キャラクター