おしゃれなカフェや飲食店などが多くあり、高級分譲マンションや賃貸マンション、一軒家が多く立ち並んでいる札幌市中央区の円山(まるやま)エリア。その閑静な住宅街の中にある、真っ白な建物の1階にあるのが「YANASE design.MARUYAMA(ヤナセ デザイン マルヤマ)」です。この店のオーナーフローリストであり、フラワーデザイナーのYANASEさんに、今回お話を伺います。
YANASEさんが手掛ける装花の人気は国内に留まらず、海外の有名ブランドのパーティーも担当するなどグローバルに活動しています。これまでの人生や、フラワーデザイナーという肩書の意味、専門学校で非常勤講師を務める理由などを伺いました。
1冊の花の写真集が、人生を変えた。
黒でまとめたスタイリッシュな出で立ちに、ゴールドのアクセサリーがマッチし、一瞬話しかけるのを戸惑ってしまうほどのオーラを放つYANASEさん。ただそれは杞憂(きゆう)に終わり、挨拶すると、とても物腰の柔らかい方でした。
「僕、北海道芦別市(あしべつし)出身で実家が花屋なんです。なので子どもの頃から、花が身近な生活を送っていました。小中高と芦別市内で過ごし、高校卒業後の進路を考える時に、花以外の道も考えたのですが、しっくりこなくて…花の道を選びました」
進学先は、札幌市内にある北海道芸術デザイン専門学校のフラワーデザイン学科。当時、YANASEさんの兄が違う学科に通っており、校内の様子を教えてもらっていたことがきっかけで、進学を決めたそう。
「2年間のカリキュラムで、印象深かったのは『美しい花を生けるのであれば、フラワーベース(花瓶)も、美しいものを』と、おっしゃっていた先生がいたんです。陶芸の時間も授業に組み込まれていて、自らフラワーベースを制作して、そこに花を生けるという授業もありました。花によって生けるフラワーベースの形や高さも変わるので、花を生ける技術の引き出しを増やすというのは、この時に学びましたね」
専門学校卒業後、札幌の花屋に就職。しかし、実家の花屋を手伝うために、一度芦別市に戻ることになります。戻ってから少し経ったある日、YANASEさんは父親と大喧嘩に。
「2年間専門学校で学んだ僕の知識と、ずっと花屋をやってきた父の知識量は歴然だったのですが、それでもぶつかってしまって。悔しい想いから『花業界に自分の名前を知ってもらって、父を超える』と決意したんですよね」
「父と同じ土俵にいても、有名になれない」と想ったYANASEさんは、東京の花屋への転職を視野にいれます。ところが、花屋へ面接希望の連絡をするものの、居住地が北海道だからなのか、なかなか進みません。時間だけがどんどん過ぎ、YANASEさんに少しずつ焦りが見え始めていきます。
「時間だけが過ぎていく状況に耐えきれず、荷物をまとめて東京へ行くことにしました。だけど、東京に来たけど仕事はなく、昔の画質が良くない携帯電話で撮った自分のアレンジメントや装花のポートフォリオを持ち、東京中を歩いて花屋の求人がないか探し回りました」
その時、偶然通りかかった南青山にある花屋の入口にイーゼル(=もともと絵を描く際にのせる画架(がか)をディスプレイ用に転用したもの)があり、その上に置いてある1冊の本に、YANASEさんは惹きつけられます。そこには「ダニエル・オストの花 in 京都」と書かれた、花の写真集がありました。
人見知りなウェディング担当。
ダニエル・オストは20代の頃から数々の賞を受賞し、ベルギー王室や万国博覧会での装花などを数多く手掛けている、世界的に有名なベルギーのフラワーアーティストです。
「専門学校の時に、先生から『ダニエル・オストの花 in 京都』の本を見せてもらったことがあったんです。ダニエルによって緻密(ちみつ)に計算されたアレンジメントをすごくかっこいいなと思って、次はどんな作品が出てくるんだろうと夢中でページをめくりました。でも、南青山でこの本を見た時、すぐにはダニエルを思い出せなくて『あれ…どこかで見たな…』と思って記憶を辿っていった感じですね」
この南青山の花屋は、当時ダニエル・オストの日本事務局になっていました。日本でダニエルが仕事をする時の窓口であり、実際に花を生ける時にはスタッフがサポート役となるほど、ダニエルと関係性がある花屋だったのです。
その事実を知ったYANASEさんは「ここのお店で働きたい」と、強く希望します。
「『ダニエルと一緒に働けるかもしれない』というのは、僕にとって予想していなかったことでした。…だけど、この南青山の店舗では働けないと言われてしまったんですよ。でも、諦めずに働きたいと伝えたら、『ウェディング部門なら人を募集している』と、声をかけてもらい、入社することができました」
花屋の多くは、店舗での販売以外に冠婚葬祭で使用する花の用意や装花を任せられることが多く、YANASEさんの入社した花屋もホテルなどで行われるウェディングを担当していました。
「こうして東京の花屋さんに就職できたんですけど…僕、人見知りで喋るのが苦手だったんです。でもウェディングの仕事って、結婚式を挙げる新郎新婦と打ち合わせがあるので、コミュニケーションは必須。花のアレンジについては話せるんですけど、それ以外は何を喋っていいか本当にわからなくて…先輩に相談した結果『年齢当てクイズ』を考えました」
実年齢よりも年上に見られることが多いというYANASEさん。打ち合わせの一番最初に「いくつに見えますか?」と、YANASEさんの年齢を当ててもらうアイスブレイクを設けました。その時の回答は、実年齢よりも上なことが多く、盛り上がることが多かったそうです。
「結婚式を挙げるのは、一生に1度なので『思っていたイメージと違う』というのは、あってはならないことです。このクイズのおかげで、僕も新郎新婦と打ち解けることができるようになり、アレンジの好みや方向性などを、普段の会話からも得ることができるようになりました」
YANASEさんの地道な努力は実を結び、担当したウェディングのアレンジや装花は好評だったといいます。そして、東京に秋が訪れるころ、YANASEさんの元に社内コンペの知らせが届きます。
コンペで勝ち取った、あの人の近く。
YANASEさんが受け取った社内コンペの案内は、クリスマス時期に販売されるフラワーアレンジメント案の募集でした。入賞するとその年のクリスマスに実際に商品として店舗販売されるのに加えて、もう1つスペシャルな恩賞が…。
「ダニエルがベルギーのセントニクラウス大聖堂で装花を行う時の、ジャパンコアチームになれる権利が与えられると聞いて、俄然やる気がでました。それまでも、実はダニエルをサポートをすることはあったんです。だけど、約100人の中の1人だったので、花材があるバケツに水を足すとか、ゴミを掃くなどの雑務でしか動けなかったんですよ。今回はコアチームなので、20人もいないメンバーの1人に選抜されるチャンスだったんです」
見事、YANASEさんは社内コンペでその権利を勝ち取り、ジャパンコアチームメンバーとして選ばれます。実際にベルギーで行われた作業は、徹夜で2日間みっちり行われました。生花なので、開花を遅らせるために寒い環境の中でひたすら素早くダニエルの指示の下、動き続けます。
「ダニエルの近くで、働けるのは夢のようでした。プレッシャーは全くなく、学生の時に見たダニエルの本の裏側を見ているような気分でしたね。僕は完成品よりもできていく工程が好きなんです。工程を学ばないと能力は伸びないと思っているので、目の前で繰り広げられるダニエルのこだわりや考え方は、とても勉強になりました」
帰国後も、YANASEさんの快進撃は止まらず、社内コンペや月刊フローリスト主催によるコンペにて内閣総理大臣賞などを受賞。他にも数々のパーティーやホテルなどで装花し、名実ともにトップフラワーデザイナーへと駆け上がっていきました。
ところで、花束やアレンジメント制作を行うフローリストと、同じように制作を行うフラワーデザイナーはどのように違うのでしょうか。
「ゼロから自分で花のアレンジや装花のデザイン案を考えられる人、かな。今はSNSやネットでもデザインが充実しているので、イメージの共有が簡単に行えるようになりましたよね。でも、自分で考えたデザインじゃないと、アレンジした時に価値観や意図をクライアントに伝えられなくて、困っている姿を様々な場面で見ます。いろんな人の作品を見ることは大切だけど、影響を受けすぎないでオリジナルのデザインを考えられるのが、フラワーデザイナーだと思います」
様々な経験を経て、北海道へ。
その後もフラワーデザイナーとして目覚ましく活躍するYANASEさんでしたが、この時期、意外にも「そろそろ北海道に戻ろうと思っていた」と言います。
「元々、修行じゃないですけど、父を超えたいと思って東京に来たので、もう十分かもしれないと感じたんですよね。最後に僕が東京で働くきっかけとなった、南青山の店舗で働きたいと打診したんですが、それが叶わなかったので『これは戻るタイミングが来た』と感じ、北海道の実家に23歳の時に戻りました」
北海道芦別市の実家の花屋に戻ったYANASEさんは、東京に行く前に大喧嘩した父親と再会します。しかし、YANASEさんも父親も何も言わず、半年が過ぎたころにYANASEさんは札幌に引っ越しをしました。
「『自分のお店を持ちたい』と現実的に想い始め、そのためには観葉植物の知識もつけたいと思うようになってきたんですよね。そこで、観葉植物の取り扱いをしている花屋に就職し、土の配合などを学びました」
その後、さらなる知識をつけるために、別の花屋へ転職。この花屋でYANASEさんは、思いがけない依頼を受けることになります。それは母校の北海道芸術デザイン専門学校から「フラワーデザイン学科の非常勤講師にならないか」というものでした。
「元々教育や育成にも興味があったため、引き受けたいと思いました。専門学校在学時には『美容師のような国家資格が、フローリストにもあればいいのに』と、フローリストが取得できる国家資格について父と話し合ったことも…。そこで技能検定制度のひとつである『フラワー装飾技能士』を取得したところ、周りの生徒たちも徐々に取得するようになっていたんですよ。その後、学校のカリキュラムにも組み込まれ、多くの生徒が目指す資格となりました」
ただひとつ問題があり、この花屋のオーナーも同校で非常勤講師をしていました。花屋としての体裁を考え、YANASEさんは別の花屋へ転職し、フラワーデザイナーと非常勤講師の二足のわらじを履いた生活をスタートさせます。
「転職先のオーナーが『うちなら全部やらせてあげれるよ』と、僕のやりたいことを尊重して、快諾してくれました。フラワーデザイナーとして、札幌のイベントや海外でのショーの装花も担当しつつ、花屋の定休日は非常勤講師をする。毎週月曜が定休日だったのですが、ちょうど月曜に専門学校の授業があったんですよね。大変でしたけど、生徒が成長していくのを見ていると素直に嬉しいし、楽しかったです」
YANASEさんは、この生活を7年続け、2019年の30歳を迎える区切りに、自身の花アトリエ「YANASE design.MARUYAMA」をオープンさせました。
自分を信じて進んだ結果が、今に繋がっている。
コロナ禍のオープンだったため、海外でのイベントやショーは行けず、国内イベントも軒並み中止が続き、近頃やっと商業施設のイベント装花などの仕事依頼が増えてきたというYANASEさん。
「最近だと、マルヤマクラスさまや三井アウトレットパークさまの装花を担当させていただきました。通常は商業施設に花屋が入っていることが多いので、その花屋に依頼が行くことも多いです。それでも僕に依頼してもらえたのは、フラワーデザイナーとして今までの経験があったからこそだと思うので、自分を信じて続けてきてよかったと思いますね」
非常勤講師の仕事も精力的に活動を続け、「より実践的な授業構築」をスローガンに、学生ブランド「tubomi ツボミ」も立ち上げました。
「『tubomi ツボミ』は、フラワーデザイン学科の学生たちが主体となって花の販売やワークショップなどの活動をしています。僕がこのブランドを立ち上げたのは、授業では体感することができない、『花を売る喜び』を味わって欲しいと思ったんです。自分がアレンジした花をお客さまが気に入って購入してもらう…その反応をダイレクトに感じてもらうことで、学生の花に対する愛情や感性が高まっているように感じます」
最後にYANASEさんに、これからについて伺いました。
「これからやりたいことはたくさんありますね。フラワーデザイナーとして海外を飛び回りたいのもありますし、『tubomi ツボミ』でも学生たちにもっと学びの環境を与えてあげたい気持ちもあります。あとは一緒に働いてくれているスタッフの環境を整えるのは、最優先で進めたいです。今いるスタッフは能力があるので、ずっといてもらいたいし、僕も一緒に働いていたい。コロナ禍が終わりウェディング需要も伸びてきて、忙しい日も増えているので、スタッフを増やして、働きやすい環境にしていきたいですね」
YANASEさんが語った未来を聞いて取材班は、すごく楽しみになりました。どの業界も働き手不足などで少しずつ縮小するのではないかと言われており、花業界も例外ではありません。でも、そんな中でも「やりたいことがたくさんある」と目を輝かせるYANASEさんを見ると、そんな未来は吹き飛ばすことができるのではないかと、希望を抱いた取材でした。