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100年の歴史と先代の遺志を笑顔に秘めて。老舗ゼネコンを率いる39歳の若き社長。

2025.11.24

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官公庁の役場や施設から、札幌都心の商業ビル、リゾート施設まで幅広い建設に取り組む藤建設工業。北海道を拠点に総合建設業(いわゆる「地場ゼネコン」)を営み、1921年の創業から100年以上にわたり地域の暮らしを支えてきました。そんな歴史ある同社を率いるのは、現在39歳という若さの代表取締役社長・工藤喜作さん。家業を引き継ぐまでの経緯や、29歳での社長就任後のご苦労、若手の育成にかける想い…爽やかな笑顔に秘められた熱い想いを伺いました。

小樽の船大工から、地域トップクラスの建設会社へ成長

白石区の住宅街を進むと突然目の前に現れる重厚な建物に、さすが老舗の建設会社…と思わず背筋が伸びる取材陣。しかし事務所の扉を開けるとカフェのようなBGM、元気良く働く若手や談笑する女性たちの姿に、イメージが覆されます。

「社員にできるだけリラックスして仕事をして欲しいんです」と解説してくれたのは、同社4代目代表取締役の工藤喜作さん。「建設業の社長」というイメージからは想像が付かないほど、若々しく物腰柔らかな姿勢についつい緊張が緩みます。まずは会社がたどってきた歴史について伺いましょう。

「公式に記録が残っている訳ではないので、聞いた話ではありますが…もともとは小樽の船大工だった初代の工藤友吉が、腕を見込まれて家を作ったのが建設業としての始まりだと聞いています。家の次は店、その次は役場…と大きな建物を手がけるようになり、少しずつ部下や仲間も増えていったようです」

こちらが、藤建設工業株式会社4代目代表取締役の工藤喜作さん。

組織化された「工藤組」は1921年(大正10年)、苫小牧市で設立。その後、世代交代を経ながら順調に拡大していき、1989年(平成元年)には現在の札幌市白石区に本社機能を移転。道内のホテルから商業施設、市町村や区の体育館など、数々の建築を手がけてきました。札幌市民にはおなじみの「シャトレーゼ ガトーキングダム札幌(旧:札幌テルメ)」を建てたのも実は藤建設工業なのだとか。1990年前後、バブルの時代には、苫小牧エリアで1、2位を争うほどの売上を誇っていたそうです。

出向先の先輩達の背中から教わった建設業の面白さ

幼い頃から父・建夫さんから「将来はお前が会社を継ぐんだぞ」と言われ続けて育ったという工藤さんですが、懸命に働く社員やお父様の姿を、自分の将来と重ね合わせることはできなかったといいます。

「バブル崩壊のあおりを受けて大変そうな姿も目の当たりにしてきたので、現実からは目を背けてきたというのが正直なところです。建設よりも石油や鉱山資源といったエネルギーの利活用に興味があって、大学もその道を学べる北海道大学工学部環境社会工学科へ進みました」

しかし卒業後はお父様からの要望で急遽、空知にあるグループ会社への出向を命じられます。

「当時は建設業の倒産が相次いでいた時代で、このグループ会社も弊社の出資で再建に向けて舵を切ったタイミング。彼らから見れば、会社の存続を懸けて必死に汗を流している中で突然、大学を出たばかりのヨソ者が来るんですから…当たり前ですが、仕事を教える余裕もないでしょうし、明るい雰囲気でもありませんでした」

しかし、そんな状況にも関わらず面倒を見てくれるベテランの先輩がいて、必死にその背中を追って仕事を覚えていきました。

「建設業の面白さを実感したのも、先輩達の存在あってこそでした。先にお話した通り、元々建設に興味がなくて、勤めはじめた頃も『どうして皆こんなに必死で頑張れるんだろう』と疑問に思い続けていたんです。でも毎日現場に通うと、つい数週間前まで何にも無かった場所に、柱が立ち、壁ができ、次第に大きな建物に変化を遂げていくのは単純に面白かった。さらに完成後は日常を支えたり、まちを災害から守ったりと、人々の生活に直結する役割を果たしてくれる。そんな目的のために汗を流す先輩たちの横顔を見ているうちに、いつしか僕も建設の面白さに夢中になっていったんです」

その後、経理部門への異動や副社長への就任、営業活動などの経験を経て、着実なステップを踏んでいったという工藤さん。しかし、そんな矢先で人生最大の試練が降りかかります。

経理部門で勤めていた頃は独自のシステム開発を進め「脱・電卓」を推進。大幅な業務の効率化につなげたそうです。

混乱のさなか指針になった、亡きお父様の口癖

2016年、代表取締役である父・建夫さんが膵臓がんで逝去。69年の生涯に幕を閉じてしまいます。

「父は5年ほど闘病生活を送っていましたが、人に決して弱い姿を見せない性格であったために、家族以外に病気の事を伝えていませんでした。おまけに直前まで社長室に立ち続けていたので、社員からすると突然の訃報だったと思います」

そんな悲しみに暮れる間もなく、お通夜の翌日には代表取締役社長に就任となった工藤さん。強烈なリーダーシップを持つ経営者の死により、会社はまるで帆を失った船のように漂う状態が続きます。

「僕は修行中で経営のことは引き継いでいない状態でしたし、悪く言えばワンマンな経営者でしたから、近しい役員たちにも継承していませんでした。これは後で聞いた話ですが、周囲から『藤建設は潰れたな』と噂されていたそうです」

しかし、そんな時にお父様の口癖だったある言葉を思い返します。それは「やると言ったら、やる」。会社の舵取りをすると決めたからには、迷いながらでも突き進むしか方法はないと決意を固めたのです。

「とにかく経験が浅い自分だけでは分からないことが多すぎる。だからこそ信頼できる仲間や社員たちの力を素直に借りて、柔軟に意見を取り入れて進めていく。たとえ失敗しながらでも挑戦していくと決めたんです」

遠方の現場にも若手の様子を見に足を運ぶという工藤社長。気さくに撮影に応じてくれる姿からも、社員たちとの距離の近さが伺えます。

目指したのは「自分が働きたいと思える会社」

男性の育休取得も推進中。先日も若手男性社員の家庭に第一子が誕生した事を機に、休日数の増加や直行・直帰OKの制度を作ったそうです。「大事な時に家族に寄り添ってあげて欲しいんです。」

実際、数年は失敗を繰り返していったという工藤さん。しかし確実に舵取りの感覚をつかんでいき、同時に将来に向けた改革にも乗り出していきました。目指したのは「自分が社員なら働きたいと思える環境」だったといいます。

「建設業は古いルールやしきたりが残っている業界です。しかし、若い自分の目から見て疑問符が浮かぶ事も少なくありません。まずは残業代を『見込み』ではなくキッチリと支給し、DX化や分業化を進めて残業時間そのものも削減。休日も他の業界にならって120日を基準に土曜日を固定休にしました。最近ではサバイバルゲームを通じて採用する『サバゲー採用』やSNSでの発信、さらに経営理念や年度ごとの方針制定など、モチベーションの面でも改革を実行しています。以前と比べて、社内がすごくいい雰囲気になったんじゃないかな…妙な閉塞感もないし、僕も冗談を言えますし(笑)」

若手社員とのサバゲー大会や野球観戦、懇親会など社内イベントも数多く実施。参加した社員曰く「工藤社長はサバゲーがめちゃくちゃ上手」だとか…。

こうした取り組みが功を奏したのか、少しずつ若手も増え、現在は社員の3分の1が30代以下というフレッシュな会社へ生まれ変わりを遂げた藤建設工業。今後も積極的な改革をしながら、建設の面白さを若手に伝えていきたいと語ります。

「代表に就任した当初は利益最優先でしたが、今はとにかくお客さんに喜んでもらうために汗を流したいし、会社の皆にもそう思ってほしいんです。最近はニセコを筆頭に不動産業界が再びバブルのような様相になり、無責任な会社も増えてきたと噂に聞きますが、うちは絶対にそういうことはしないと約束します。会社を変えても、大切にしたいのは父の遺志。『やると言ったら絶対にやる』『不器用でも誠実に向き合う』、そんな言葉を大切に、今後も正直な建物づくりをしていきたいと思うんです」

最後は取材陣を見送ってくれた工藤社長。その笑顔は、老舗企業を背負う決意やお父様の死という重さを感じさせない、爽やかな表情でした。

工藤喜作さん

藤建設工業株式会社 代表取締役

工藤喜作さん

北海道札幌市白石区栄通15丁目8番6号

TEL. 011-855-8181

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