旭川市出身の牧谷宇佐美さんは、プロ野球チーム東京ヤクルトスワローズの選手として11年東京で活躍し、現役引退後は札幌へ。その後、北海道日本ハムファイターズのアカデミーコーチとして活動し、今はNPO法人北海道野球協議会の事務局次長として、道内の野球普及振興に力を入れています。プロの世界を見た牧谷さんだから語れる野球に関わる仕事への考え方や、今のご自身の活動、そしてこれからについて伺いました。
強豪校で才能を発揮し、プロ野球の世界へ
北海道旭川市で育った牧谷さんが、プロ野球選手を目指すようになったのは小学生の頃でした。父親が長嶋茂雄さんの大ファンで、テレビはいつも野球中継か時代劇。自然と野球を観る機会が多くなり、プロになるのが当たり前のように思っていたといいます。
小学校4年生で地元の少年野球チームに入り、放課後は毎日練習に励み、土日は練習試合と、まさに野球一色の生活を送っていました。中学生になると体格も良くなり、高校進学の時期には、道内の複数の野球強豪校からスカウトの声がかかったそうです。
「7校くらいスカウトが来ていたみたいですね。でも、そもそも僕自身はスカウトという野球推薦で進学できることを知りませんでした。先生から、スカウトが来ているという話を聞いたときも、何の話?という感じだったんですよ」

その後スカウトの仕組みを知り、「最初に声をかけてくれた高校へ行く」と決めていた牧谷さんは、旭川実業へ進学。同校は、甲子園でベスト8に進出するほどの強豪校です。
「どの高校が強いかなんて、正直よく分からなかったんです。練習を見に行ったこともなかったですしね。どうせ見ても自分の方がうまいだろうって思っていました。当時はかなり生意気でしたから(笑)。でも、入学前に参加した練習がかなりきつくて。これはついていけないと思い、そこから毎日走り込みをするようになりました」
入学後も、1年生はすぐに練習には加われず、グラウンドから外れた場所で、決められたメニューをひたすら繰り返す毎日でした。一人ひとりに指導係の先輩が付き、声の出し方やウォーミングアップの動きを、何度もやり直させられながら覚えたといいます。ところが、初めてのピッチング練習で一球目を投げた瞬間、練習場の空気が変わりました。
「腕が引きちぎれるほど思いっきり投げたんです。そうしたら『なんだ今の球』って、みんながシーンとしてしまって。バッティングでも一球目にホームランを打ったんですよ」

その姿が見込まれ、牧谷さんがピッチャーとして試合に登板したのは、同年5月に行われた、駒大岩見沢との練習試合。先発投手がこれでもかというほど打ち込まれた後、急遽中継ぎとしてマウンドに立ちます。結果は、3回無失点という成績を残すことに。
そして高校3年の秋、全国紙にドラフト候補として名前が挙がります。牧谷さんは、身体能力の評価で常にAランク。しかし、牧谷さんがスカウトの目に留まったのは、ラッキーな偶然からだったといいます。
「対戦相手のピッチャーを見にプロ野球のスカウトの人が来ていたんですが、その選手がたまたま登板しなかったんです。これはチャンスだなと思って、またもや腕がちぎれるくらい思い切り投げたら、140km出てしまった。しかも打率も良かったんです。すると、『あいつは誰だ』ってなって。あの試合がなかったら、プロには行っていなかったですね」
そして迎えた、ドラフト当日。校内の一室で待たされていた牧谷さんのもとに、興奮した監督が部屋に飛び込んできます。結果は、東京ヤクルトスワローズからの指名第2位。こうして、牧谷さんは子どもの頃の夢を実現させ、プロ野球選手としての道を歩み始めます。

全てをやり切り、現役生活にピリオド
ドラフトに指名された翌年の1月に新人合同自主トレがスタートし、2月から春季キャンプに参加した牧谷さん。プロ入り1年目の選手は、雑用をこなしてようやく、自分たちの練習にとりかかれます。練習に使う道具の準備や片付けだけでなく、試合中に打者が投げたバットやファウルボールを拾うのも、1年目の選手の役割だそう。
「それが当たり前でしたからね。いまメジャーリーグで活躍している選手たちも、みんな1年目には同じことをやっていました」
1999年に投手として入団した牧谷さんは、2001年に持ち前の身体能力を見込まれ外野手に転向。2005年に、プロ入り後初めてオープン戦で一軍を経験するものの、公式戦への出場は果たせませんでした。そしてプロ入り10年目となる2008年、ついに一軍公式戦に初出場へ。

素人目線では「小さい頃からテレビで見ていたプロ野球の一軍で野球ができるなんて、楽しいだろうな」と単純に思ってしまいましたが、牧谷さんからは…
「もちろん野球は好きでした。でも、野球が仕事となると別です。二軍であろうと、一軍であろうと観客はプロの野球を見に行きている。その期待を考えると、ただ自分が楽しんで野球をやるという感覚はなくなっていきましたね」
さらに、プロ野球時代の自分にとって一番の財産は、自分に厳しい意見を言ってくれた人との出逢いだと続けます。
「例えば、うまくなったなと褒められるのは、お菓子で当たりが出たときの感覚と同じなんです。その場ではすごくうれしいんですけど、3日後には忘れている。自分の根っこになるような言葉って、ポジティブなことだけじゃないんです。『お前のやっていることは間違っている』と言ってくれる人がいたからこそ、今の自分がいると思っています。こう思えるのは、おそらく僕の家庭環境がベースにあるから。特に父からは、高校生の頃から『謙虚になれ』とよく言われていました」

そして、2009年。牧谷さんは戦力外通告を受け、現役を退くことになります。そのときの気持ちを伺ってみると、意外なほど明るい表情でこう語ってくれました。
「清々しい気持ちでしたね。最後はケガもしていたので、もうあのキツいトレーニングをしなくていいのかと思うと、ほっとしました。プロの選手って、みんな一度は何かしらのケガをするんですよ。大抵の人は、ケガをする前の状態に戻そうとするけれど、それは無理。たとえ、正常な状態の20%までしかコンディションを戻せなくても、その中でどう100%のパフォーマンスを出すかを考えなきゃならない。それをしなくて良くなったと思ったら、すごく気持ちが楽になりました」
プロ野球選手としてやることはすべてやり切ったという牧谷さん。
「過去は絶対変えられない。できることは未来にしかないんです」

野球に関わり続けたい、その想いで北の大地に
牧谷さんは、プロ野球選手時代に自分のセカンドキャリアについて考えたことは一度もなかったそうです。
「もともと目の前にあることだけに集中するタイプだったので。それに、いくら自分がどこかの球団で働きたいと思っても、『お前じゃ無理だよ』と言われたら終わりじゃないですか。全ては自分が歩いてきた結果だから、焦っても仕方がない。仕事がなければバイトを掛け持ちすればいいくらいに思っていました」
それでも、野球に関わり続けたいという思いはあったといいます。地元に戻り、コーチやプレイヤーをしながら、自分が培ったことを北海道の野球界に還元したいと考えていました。

そんな時に、当時の北海道日本ハムファイターズ(以下、ファイターズ)のGM(ゼネラルマネージャー)から声をかけられます。
「僕のプレースタイルをずっと見てくれていたんです。採用を決める会議で出席した全員が僕の採用に反対する中で、ただ一人強く推してくれたと聞きました。すごくうれしかったですね」
その期待を背に、牧谷さんはファイターズ職員としてのキャリアをスタート。ベースボールアカデミーのコーチとして、野球教室やスクールでの指導を行います。教える立場になること自体には抵抗がなかったものの、子どもへの指導には、大人とは違う難しさがあったそうです。
「基礎的なことから分かりやすく伝えなければならないのが、大変でしたね。さらに野球教室の場合は、また違った難しさもあって。僕はスポットで教えに行くことが多いので、野球教室のチームコーチが言っていることと違うことを言われると子どもは迷う。だから、打ち方を教える前に、普段どう教えてもらっているかを聞くところから始めていました」

その後、2019年からはNPO法人北海道野球協議会(以下、野球協議会)に出向し、事務局次長として北海道のアマチュア野球会に貢献しています。野球協議会のことはほとんど知らなかったという牧谷さん。現在は、普及振興のための野球教室の企画や、学童期のケガを予防するための肘健診のほか、女子野球連盟の代表も担っています。また野球イベントの際には、野球協議会とファイターズのつなぎ役も果たしているそうです。
「今、野球協議会で一番力を入れたいのは野球の普及振興です。野球人口が減っている中で、地方では町同士の合同チームが増え、中学校の部活も成り立ちにくくなっています。部活動という誰でも参加できる環境が失われていくと、自然と野球人口も減っていってしまいますよね。それは、なんとしても食い止めたいと思い活動しています」
一緒に活動する協議会のメンバーには、感謝や恩義を大切にするという昔ながらの良い文化が残っていると話す牧谷さん。その素晴らしさも、若い世代に伝えていきたいそうです。


人との出逢いが、今を広げていく
2023年には牧谷さんは自身の会社「一般社団法人 Next Creation Japan」を立ち上げ、自治体とも連携した活動に取り組んでいます。Next Creation Japanの理念は、「スポーツ×教育」を軸とした地域への貢献。活動の中には、学校で道徳や体育の授業を行うこともあるそうです。
「去年は、ロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平選手が全国の小学校にグラブを寄贈したときに野球協議会でボールを配り、札幌市の教育委員会に提案して、僕が小学校で投げ方の授業を行いました。大谷選手がせっかく投げかけてくれたメッセージを無駄にしたくなかったし、僕も同じ気持ちでしたから」


また、牧谷さんは小鍛冶組(こかじくみ)という土木事業会社の軟式野球部の指導も行っています。
「小鍛治組の社長も高校野球をやっていた方なんです。僕がファイターズを退職するときに、共通の知人から紹介されました」
野球には、人の性格や仕事への姿勢がよく出ると牧谷さんは話します。
「野球で同じミスを繰り返す人は、仕事でも同じような傾向があるんです。そういう人には、ミスの原因を考えさせて、仕事につなげることもあります。いわば、野球を通じた『社員研修』のような感じですね」

さらに、現在は北海道フロンティアリーグに所属する、別海パイロットスピリッツのチーム戦略ディレクターも務めています。別海パイロットスピリッツは野球未経験の人が集まって設立されたチーム。メンバーの一人が小鍛冶組の社長の知人だったことから、牧谷さんに声がかかりました。牧谷さんの仕事は、チーム編成や選手集めに関するアドバイスです。NPB(日本野球機構)のトライアウトへ足を運んだり、沖縄で開催されるウインターリーグから選手をスカウトしたりしています。
お話を伺っていると、牧谷さんが何かを始めたり、実現する時には必ずキーマンがいるように感じます。それは牧谷さんも感じるようで…
「これまでいろいろなところで生まれた出逢いという『点』が、どんどんつながって『線』になる。そんな感覚がありますね」
教育×野球の仕組みを作って、次世代へ渡したい
プロ野球選手として第一線を走ったのち、指導という形で野球に関わり続けてきた牧谷さん。現在は、スポーツを通じた人材育成や教育・地域との連携など、活動のフィールドを広げています。
「今後は、自分の法人でできることを増やしていきたいですね。今は誰かを雇っているわけではないですが、これからはスポーツ選手のセカンドキャリアの受け皿になれるような仕組みをつくっていきたいんです。僕自身がファイターズ時代にそういう機会をもらった立場なので、今度は逆にそういった場を提供する側になれたらと思っています」
拠点は、あくまでも札幌。自身の経験や価値観を、この土地の子どもたちに還元していきたいという想いが強くあるといいます。


「教育とも掛け合わせたいので、スクールのような場所をつくりたいんですよね。子どもたちが将来自分の強みとなるものを身につけられる場所。全部を一人でやるのは難しいですが、仕組みを作って、それを渡せるような形にしたいです」
18歳から東京生活だった牧谷さんは、札幌の魅力についても熱く語ってくれました。
「札幌は便利さと自然のバランスが絶妙です。生活に必要なものは何でも手に入るし、五感で四季を感じられる。そういう環境って子どもにとっても大事だと思うんです。例えば、風が冷たくなったら雪を予感するとか、土を触って匂いを感じるとか。そういう感覚って、大人になってからは得られにくいと思うんです」
そんな牧谷さんに、野球に関わる仕事に就きたいと考える若い世代へのアドバイスもお願いしました。

「まず、どういう関わり方をしたいのか明確にすることです。プロ野球なのか、アマチュア野球なのか。プロ野球にはトレーナーやデータ分析、通訳の仕事があるし、アマチュア野球なら、理学療法士としてケガの予防や治療に関わるという方法もある。関わり方によって進むべき道は変わります。何をやって良いか分からなかったら、例えば、少年野球のコーチから始めてみるのもいいですよね。自分の理想と違ったとしても、そこから次の道が開けてくることもありますから。最初から大きく関わろうとするとつまずくので、まずは小さな一歩から踏み出すことが大事だと思います」
最後に、今も野球を続けているか尋ねてみると、こんな答えが返ってきました。
「やっていますよ。朝野球ですが、打席に立つときは現役のときと同じ気持ちです。自分のスクールに通う子のお父さんが対戦相手かもしれないと思ったら、適当なプレーなんてできないですよ。むしろ、今の方がいろんなものを背負っているかもしれませんね。たとえ一打席でも、さすが元プロっていう雰囲気を残さないと(笑)」
プロ野球選手からコーチ、そして地域に根ざした活動へと歩みを進めてきた牧谷さん。その原動力となっているのは「野球が好き」という想いでした。特に印象的だったのは「北海道に還元したい」という言葉。これからも野球の枠にとどまらず、教育や地域と連携した取り組みに挑戦してほしいです。