北海道札幌市西区にあるカフェ「コーヒーと雑貨 Cafe Silk Tree(シルクツリー)」を営む、永井等(ひとし)さんと妻の都穂美(つぼみ)さん。実はふたりとも、元医療従事者です。同じ病院に勤務したことが縁で夫婦となり、今に至ります。「お客さまの居心地の良さを大切にしたい」と話す、おふたりにカフェオープンのきっかけや、これからのビジョンなどを伺いました。
違う場所で、医療の道を目指したふたり
等さんが、医療の道を目指したきっかけは、高校生の時にバスケでケガをしたことだそう。札幌市内の高校卒業後は、診療放射線技師の資格を取得するために青森県の医療系短大に進学。札幌を離れ、慣れない土地での学生生活を聞いてみると…。
「楽しかったですよ。青森というと、方言が強いイメージがありますが、生活に支障を感じたことはないですね。受験のときにバスの運転手さんに行き先を尋ねたら、何を言っているのか分からなかったことはありましたけど(笑)」

短大では「同じ技師を目指す仲間たちと支え合いながら学んだのが思い出」と等さんは話します。一方、都穂美さんは、旭川市の高校を卒業後、滝川市の看護学校に進学しました。
「特に強い志があって看護師を目指したわけではありませんでした。クラスメイトに看護学校を受験する子が多かったし、なんとなく安定した職業だなというイメージがあって。将来なりたいものもはっきり決まっていなかったので、とりあえず受験してみようと思ったんです」
看護学校での勉強は大変だったと話す都穂美さん。でも同時に、自分が看護師の仕事に向いているとも感じたそうです。

「学校の実習で病院を訪れた際、患者さんが元気になっていく姿を見るのはうれしかったですし、人の役に立っているという実感がありました。看護師として働き出してからも、誰かに必要とされていると思うとやりがいを感じました」
ふたりは同じ病院に入職し、懇親会などで顔を合わせるうちに、お互いを意識し始めたそう。出会って半年ほどでお付き合いを始め、その1年後には結婚を決めていました。結婚後も、等さんは診療放射線技師として働き続け、都穂美さんも長男と次男の出産で産休育休を取得しながら、看護師の仕事を続けます。
「子どもが生まれてからは、毎日が必死だった」と話す等さん。都穂美さんも、「毎日が戦争のようでしたね(笑)」と振り返ります。

子どもの成長した姿がカフェオープンの後押しに
子どもたちが高校・大学生になり、子育てが一段落し始めた頃、等さんはそれまで勤めていた病院を退職。技師の仕事にやりがいは感じていたものの、職場の環境を変えてみたいと思ったそうです。
「別の病院に転職して働こうかなと思っていたぐらいで、その時はまだカフェを始めるなんて思っていませんでした。ただ、コーヒーはずっと好きで、コーヒー教室や自宅で焙煎していた時期もありましたね」
「自分が焙煎したコーヒーを誰かに飲んでもらえたらな」。そんな気持ちを少しずつ抱きながらカフェ巡りをしていた等さん。ある日、よく通っていたカフェのオーナーに「いつか自分が焙煎したコーヒーを飲んでもらえるカフェをやってみたい」と話したところ、すぐに空き店舗を紹介してくれることに。ところが、細かい条件が合わず、残念ながらその話は白紙へ。

しかし、ほどなくして、西区のカフェの場所を借りることができるかもという話が等さんの元に届きます。それが現在の場所でした。
「6年間この場所でカフェを続けていたオーナーさんを、妻の友人が紹介してくれたんです。お店に入った時の雰囲気がとても良くて…ここでカフェをやってみたいと思ったんですよね」
カフェを始めると周囲に伝え始めてからは、「生活の安定を考えてどちらかが医療職を続けたら?」という声もあったそう。しかし、都穂美さんはこう話します。

「学費も家のローンも残っていたので迷ったのは確かです。でも、後で『あのときカフェをやっていたら』と後悔するのは嫌で。もしダメだったらまた違うことをやればいいと思い、そこからはもう『やっちゃえ!』って動き始めてましたね(笑)」
また、当時大学生だった長男の姿にも影響を受けたそう。等さんと都穂美さんは当時のことをこう話してくれました。
「初めての子育てで、過保護に育ててしまいがちだった息子が、自分でやりたい道を切り開いていく姿を見て、親の私たちもがんばらなきゃなと思ったんです」

真逆な性格のふたりだから続けてこられた
店舗が見つかり、いよいよカフェオープンへと動き出した永井さん夫婦。ところが、この時、等さんは診療放射線技師として前職とは別の病院で働いていました。
「1軒目の物件の話が破談になったとき、無職のままじゃまずいと思ったんです。そのとき、前職の上司だった人から連絡があり、今働いている病院に一人欠員が出るので来てくれないかと言われて。物件が見つかるまでという条件にしてもらい、パートとして働き始めていました」
現在の店舗が決まったのは、新しい病院で働き始めてから半年ほどたった頃。なんと、その時には、等さんはパートから正社員に昇格していました。
「まさかそんなに早くカフェの話が決まるとは思わなかったので、順調に昇格してしまって(笑)。病院側もさすがにびっくりしていましたが、もともとカフェが見つかるまでと話していたので、快く送り出してくれました」

等さんは退職後、デザイン事務所の協力を得て、約2カ月半かけて店舗を改装しました。そして、ついに、2023年10月に「コーヒーと雑貨 Cafe Silk Tree」がオープン。
だけど等さんは、やっと店をオープンできたワクワク感と同時に、誰も来ないのではないかと不安になったといいます。
「実は、オープンの日にちもはっきり決められなくて、しっかり告知もできなかったんです。メニューもギリギリまで決まっていない状態で。『オープンはできたけど、大丈夫だろうか…』と思っていましたね」
都穂美さんに、オープン当日の様子を聞いてみると…。

「ドアを開けたら、オープンを待ってくれていたお客さまがいたんです。お店のSNSを見てくださった方や、前のオーナーさんの頃から通ってくれている方が来てくれました」と、うれしそうに教えてくれました。
その後は、地域の方々や口コミを通じて少しずつ認知が広がり、お客さまの来店も増えていきました。常連の方ができたり、新しいお客さまが足を運んでくださったりと、少しずつ賑わいが生まれていきました。しかし、傍から見ると順風満帆に見えますが、やはり経営に不安はつきもの。
「お店を続けていけるのかな、という不安はいまだにあります」と、等さんは話します。「明日どうなるか分からないということを、つい考えてしまいますね」と正直な気持ちを明かしてくれました。
一方の都穂美さんは…。

「私は、それほど不安はないかな。この場所がすごく好きなんです。お客さまが誰も来ない静かな日でも、ここにいるだけで落ち着く。休日でもつい来てしまうくらい(笑)。ここにいたいという気持ちがあるから、続けてこられたのかもしれないですね。こんなに素敵な場所を与えてもらって、本当にありがたいと思います」
ある意味、真逆な性格のふたり。でも、このバランスの良さがSilk Treeを続けていくために大切なのかもしれません。都穂美さんもこう話します。
「ふたりで不安になっていたら、辞めていたかもしれないですね。不安はあるけれど、とにかく、今来てくださっているお客さまを大切にする。そこからまた次につながっていくんだろうなと思っています」
お互いに足りない部分を補い合える関係。お話を聞いていると、少しうらやましくなってきてしまうほど素敵な関係です。

大切にしたいのは「居心地のよさ」
等さんと都穂美さんがカフェを開くにあたり、大切にしたのは「居心地のよさ」でした。
「僕たちはもともとカフェの素人ですから、料理やスイーツ、コーヒーで勝負しようとしても、プロには敵わないと思っています。だからこそ、どこで食べるか、どこで飲むかという空間作りを大切にしました」と等さんは語ります。


Silk Treeでは、コーヒーのほかに、スイーツやランチを楽しめます。スイーツを作っているのは等さん。ランチは都穂美さんの担当です。
「主人は器用で、コーヒーに合ったおいしいスイーツを作ってくれています。食事は私の担当。主婦として料理はしていましたが、お店で出すとなると緊張しますね。仕事をしていたので簡単なものしか作っていませんでしたから。カフェをオープンすると決まってから、がんばっていろいろなメニューを考えています」
等さんは、もともとスイーツを食べるのも作るのも好きだったと話します。

「いつかカフェをやりたいという気持ちがあったからかもしれませんね。でも、本格的に作るようになったのはお店をやると決まってからです。最初はプリンやパウンドケーキ、シフォンケーキなど、シンプルなものを作っていました。自分で作って食べていたときは、ただ楽しいだけでよかったのですが、お客さまに出すとなるとそうはいかなくて(笑)。味もビジュアルも大切なので、こだわりをもって作っています」
カフェをオープンしてからの苦労について尋ねると、ふたりとも口をそろえて「メニューを考えたり、仕込みをしたりするのが大変」と答えました。しかし、お客さまへの対応には、医療従事者として働いていたときの経験が役立ち、不安になったり慌てたりすることはないといいます。
そんなふたりがカフェをやっていて楽しいと感じることは、お客さまとの会話。中には、カフェをやってみたいという話をされることもあるそうです。

「お客さまで、今の仕事を辞めてカフェをやりたいと話してくれることもありましたね。何回か来てくれているお客さまとはちょっと距離が近くなった気がして、こちらからも声をかけやすくなります。おいしかったと言われるのももちろんですが、居心地がよかったですと言われるのが一番ですね」
と、都穂美さんは目を輝かせていました。
楽しい場所に人は集まる
お客さまへ心地よさを提供したいと始まった「SilkTree」。この店名にはどのような思いが込められているのでしょうか。都穂美さんに聞いてみました。
「Silk Treeは、日本語でいうとネムノキのこと。ネムノキには『人と人との喜びが重なり合う』や『夫婦円満』といった花言葉があります。このお店が、人と人が出会ってつながり、その喜びが重なっていく場所になってほしい。私たちだけでなく、来てくれる人それぞれの「心地よい居場所」にしたい。そんな願いをこめてこの名前をつけました」

そして、その思いが、少しずつ叶っていることを感じているとも話します。
「医療の世界にいたままでは知らなかった人たちとの出会いがたくさんありました。お客さまと話しているうちに新しい仕事の依頼が生まれたり、カフェを通じてつながった人たちが一緒にイベントをしたり。間借りカフェをしている人がスイーツを作り、主人がコーヒーをいれるというコラボをしたこともあります」
Silk Treeでは、モーニングのほかに夜営業やワークショップ、店長犬の出勤デー、洋服の受注会などさまざまなイベントを開催しています。今後は、どのようなことをやってみたいか聞いてみると、「ペンションみたいなスタイルもありかな」と都穂美さん。


「今は、お客さまが来てくれるかという心配も、来店が重なった時に対応しきれなくなる不安も、どちらも同じくらい気がかりなんです。せっかく来てくださったのに満足してもらえなかったり、居心地のよさを大事にしているのに、逆にお客さまに気を遣わせてしまっていたりしたら申し訳ないですよね。それなら、1日にお迎えするお客さまの数を決めるのもいいかなと思って。その方たちに朝から夜まで過ごしてもらうゲストハウスのようなことをやってみるのもいいんじゃないかと考えています。来てくれたお客さま同士にも会話が生まれて、実家みたいに『また来るね』って言ってもらえたらうれしいですね」
おふたりに、これからカフェを始めたい人へのアドバイスをお願いしました。
等さんは、「無理をせず、等身大でやることが大切」だといいます。「できる範囲を超えると、自分たちにもお客さまにも負担がかかる。自分たちのできることをしっかりやることが大事だと思います」

都穂美さんからは。
「今までやってきた仕事の経験は、どこかで必ず役に立つと思います。私自身も、これまでの人生経験で無駄になっているものはないと感じているので、常に今を大切にしてほしいですね。それに自分たちの軸がブレないようにすることも大事。お客さまに満足して帰ってもらうのはもちろんですが、まず、自分たちが楽しいと思えることをやる。楽しいところに人は集まってくるんじゃないかって思ってます」
最後に、これから夫婦でやってみたいことを尋ねると、「旅行に行きたいですね」と声をそろえました。

「今のところ忙しくてなかなか実現できませんが、自分でお店をやっていると、自由に休めるところもいいですよね」
診療放射線技師と看護師という、一見カフェとは無縁の経歴を持つ永井さん夫婦。しかし、都穂美さんがお話していたように、相手に喜んでもらいたいというホスピタリティの心はどちらにも共通するものだと感じました。これからも、居心地のよい実家のような場所として、いつまでも続けていってほしいと思います。