シンガーソングライターの花男さんは、自身で「宮田モータース」というレーベルを立ち上げ音楽活動をしています。そして、2016年に活動を休止したパンクロックバンド「太陽族」のボーカルでもあります。10代で始まったバンドの夢や、20代で感じた成功と挫折、新しい家族が増えた30代で得た心境の変化など。さまざまな経験をした花男さんだから話せる、今までとこれからを伺いました。
パンクロックと出会い、高校で太陽族を結成
花男さんと音楽との出会いは、小学生時代にさかのぼります。当時は、徳永英明さんや中島みゆきさんの曲をよく聴いていたそう。中学生になると、英語の先生が授業中に流していた、カーペンターズやビリー・ジョエルなどの曲を聴くのが好きだったと話します。
そんな花男さんが、運命の音楽と出会ったのは、中学2年生の頃。友達から教えてもらって聴いたパンクロックバンドのブルーハーツの曲です。
「初めて聴いたのは『終わらない歌』という曲でした。歌詞を聴いて、怖かったり逃げ出したくなったりするのは自分だけじゃないんだって思えたんです。ブルーハーツを聴いてから、急に音楽が身近なものに感じられるようになったのを覚えています」

中学時代はサッカーにも夢中で、まだ自分で音楽を始めるとは思っていなかった頃の夢はサッカー選手。高校に進学してからも、サッカーとパンクロックを愛する少年として活発な学生時代を過ごしていました。ところが、高校2年生のときに、サッカー選手への夢が途絶えてしまいます。
「ちょっとしたトラブルがきっかけで、サッカー部を退部になってしまったんです。下手くそだけど本気でサッカー選手になりたいと思っていたので、夢を失い、応援してくれた親も傷つけて、友達とも大ゲンカしました。人生の中で一番大きな挫折でしたね」
そのときもまた、花男さんは音楽に救われます。それは、THE ピーズというロックバンドの曲でした。

「古本屋に行ったら、このバンドのCDが捨てられたように段ボールに入って売られていたんです。それが、なんだか今の自分みたいだなと思って。しかも、まるで自分のことを歌っているようなタイトルの曲ばかりだったんです。俺のことを分かってくれる人がここにいるって思いました」
音楽に救われた花男さんはサッカーを辞めてから、コピーバンドを組みます。楽しくバンド活動を行っている時に、バンド仲間の風太さんが花男さんに「オリジナル曲のバンドをやろう」と声をかけたのです。
そう、これがパンクロックバンドの太陽族を結成する第一歩でした。

「風太に言われて、確かに、自分が作った曲で誰かが感動してくれたら、俺が生きている意味があるかもしれないと思ったんです。それで、初めて『夢』という曲を作りました。その曲をすすきのの路上で歌っていたときに、酔っぱらいのおじさんから『お前、下手くそだけどなんか届いたわ』って言われて、これからも曲を作っていこうと決めたんです」
最初のライブは、高校3年生のとき。バンドを組んだ当初は、一回だけライブをやって解散し、「伝説」にしようと考えていたそうです。
「でも、ライブの録音を聴いてみたら、すごく下手くそなのに独特な面白さがあって。思い切って続けることにしたんです。そのあと札幌で2回程ライブをしたんですけど、そこでいきなり『東京に行こう!』ってなって。まだ2回しかライブしていないのに。馬鹿みたいですよね。逆に当時の伝説というか、笑い話です(笑)でも本気でした」

夢を抱いて上京。待っていたのは厳しい現実
音楽のために東京に行くことに対し、周りの大人たちは反対しなかったのでしょうか。
「それまで、高校の進路希望の用紙に消防士と書いていたんです。それを消して『音楽で東京に行く』って書き直したら、職員室に呼び出されました(笑)。でも、本気で音楽をやりたいんだって伝えたら、先生が『本当にやりたいなら、いけるところまでやってみたらいい』と言って応援してくれたんです。てっきり怒られると思っていたのでうれしかったですね」
親御さんの反応は?

「父さんと母さんには、ギタリストの風太と二人で、自分たちの考えをまっすぐに伝えました。迷惑をかけないように、バイトしながら頑張るからって。父さんも母さんも俺たちの話をちゃんと聞いてくれて、『それなら思いっきりやってみろ』と言ってくれたんです。ただ、3年間頑張ってもダメだったらそこで諦めるという約束をしました。結局迷惑もいっぱいかけてしまったんですけど、両親が話をゆっくり大切に聴いてくれた夜を覚えています」
ところが、高校を卒業した花男さんは、なぜか大阪に向かいます。
「まず、家を借りる資金をためるためにバイトしようと思って、働く場所を考えたんですよ。ずっと関東に住むことになるし、せっかくならこれから住む予定がない場所の中で、住んでみたかった町ということで、大阪に決めたんです。お金がないので、最初は公園に寝泊まりしながら住み込みで働けるラーメン屋のバイトを探しました」

ラーメン屋を選んだのは「ラーメン屋の2階に住んで曲を作ってみたかった」と、花男節炸裂の理由が。1年ほどバイトをしてお金をため、花男さんは先にバンドメンバーが住んでいた埼玉県に引っ越します。
「今思えば、埼玉と東京はほぼ変わらないんですけど、そのときは、『なんだ、東京じゃないのか』とよくいわれました(笑)。しかも埼玉でもしばらく、高校卒業時にベースが脱退してからベーシストもいない状態ままで…最初の勢いと状況が変わってきているのは感じていました」
しばらくは花男さんがベースボーカルを担当していたものの、徐々に歌に専念したくなっていきます。そこで、当時のバイト仲間に、ベーシストとしてバンドに入ってもらえないか頼んでみることにしました。

「ベースは弾いたことがないって言われたんですけど、バンドって上手い下手じゃなくて誰と一緒にやりたいかだから大丈夫だ!って。なんとか説得したらOKしてくれました。無茶苦茶な自分とよく一緒にいてくれたなと、感謝しかありません」
こうして、ついにバンドメンバー4人そろっての音楽活動が始まりました。しかし、ライブをやってもなかなかお客さんは増えません。
「ライブやるにもお金はかかるし、借金も作ってしまったり、生活も大変でした。お客さんも増えないし、メンバー脱退もあったり、うまくいかない事が多く、自分のやっていることは間違っているんじゃないかとネガティブに考えてしまい、初めて音楽を辞めようと思ったんです」

この曲で最後にしよう。そう思いながら曲作りをしていた花男さん。しかし、曲が完成したとき、もう一度頑張ろうと思い直します。
「暗い曲を書くつもりが、途中でだんだん悔しくなってきて。気づいたら『こんなぐちゃぐちゃな状態だけど精一杯叫んでやる!』っていう内容の歌詞を書いていました。それを見たら、自分はまだ辞めたくないんだって思ったんです。HEBOという曲でした」
成功と挫折。それでも音楽を諦めない
上京から3年たったある日、北海道から花男さんの父親が訪ねてきます。北海道を出る時に父親と約束した期限が近づいてきたからです。その頃、バンドはギターとドラムが辞めてしまい、メンバーは花男さんとツヨシさん(ba)の二人だけ。生活にも困っている状態で、これでは北海道に戻ってこいと言われてしまう。そう考えた花男さんは、父親に嘘をつきます。「お客さんが増えて、もうすぐCDを出せそうだ」と。
「俺の嘘に、父さんは『じゃあもうちょっとやってみるか』と言ってくれました。でも、駅まで見送りに行ったとき、こんなに信じて応援してくれている父さんにそんな嘘をついていいのかって思ったんです。だから、帰ろうとするスーツ姿の父さんを引き留めて、二人で飲み直しながら、全然うまくいってない本当のことを話しました」
「今辞めたら絶対に後悔する。だから、もう少し頑張りたい」。心の内をすべて吐き出した花男さんを、父親は再び応援してくれました。

「あのとき、父さんに『もう帰ってこい』って言われていたら、今の俺はいないですね。ベースも『もう一度バンドをやろう』と言ってくれたので、そこから気合いを入れ直してバンドメンバーを集めました。それで、2001年11月に『男の子』というミニアルバムを発売したんです」
ついに、CDアルバムの発売にこぎ着けた太陽族。そのきっかけは、まさに奇跡的な偶然でした。ある日、花男さんたちが練習していたスタジオの隣の部屋で、中学生の時にテープが擦り切れるほど聴いたあのブルーハーツのドラマーの梶原徹也氏が練習していたのです。
「これはチャンスだと思って、梶原さんに自分たちの演奏を録音したカセットテープを渡しました。すると、後日また同じスタジオで会えて、『テープを聴いたよ。胸が熱くなるものがあるから、名刺がわりに1枚CDがあった方がいいと思う。一緒にCD作ってみないかな。』と言ってくれたんです。しかも、アナーキーというパンクバンドのギタリストだったマリさんも同じスタジオを使っていて、レコーディングに協力してくれました。先輩2人には今も本当に感謝しています。夢かと思いました」

これが最後のチャンスだと思って作ったCDは予想以上の売れ行きで、ライブに来るお客さんの数も徐々に増えていきました。そしてついに、大手レコード会社からメジャーデビュー。
デビュー後は、さまざまなライブやイベントに出演した一方で、もらえるはずのお金をもらえなかったという苦い経験もしたといいます。
その後、うまくいく事ばかりではなく、太陽族は2008年にレコード会社とのメジャー契約を終了。ベースとドラムのメンバーもバンドを脱退、事務所からも契約を終了の連絡が。収入はゼロに。しかし、まだ諦めたくなかった花男さんは、アルバイトをしながらでも、のこってくれたギターそら坊さんと、音楽活動を続けようと決めました。その後、ベースまるさん、ドラムりょうさんが加入し、太陽族がインディーズとして続くのでした。29歳の時でした。

「配達のアルバイトを始めたんですが、『太陽族の花男さんじゃないですか?』って声をかけられることもありました。正直、複雑な気持ちで『似ているってよく言われます』とごまかしてしまうこともありましたね。でもバイト先でも、音楽をやっている人たちがいて『音楽やるためにバイトしているのが最高にかっこいい』と言ってくれたんですよね。それがかなり心の支えでした。太陽族のファンもまだいてくれたし、その人たちのためも音楽を届けたいという思いでがんばりましたね」
しかし、2016年に太陽族は活動を休止。花男さんは北海道に戻ることに決めました。
家族とともに宮田モータースを立ち上げ
花男さんが太陽族休止後に北海道に戻ろうと思ったのは、高校時代から太陽族を応援してくれていた奥様の妊娠が分かり、北海道で子育てしたいという気持ちもあったからだといいます。現在、花男さんは「宮田モータース」という自主レーベルを立ち上げ、小樽を拠点に家族と共に音楽活動を続けています。
「バンドが活動休止になり、一度は就職しようと思いました。でも、嫁さんが『どうせ歌うのやめられないんだから、やれるところまでやったら』って言ってくれて自分も腹をくくれました。今は一緒に宮田モータースの運営を手伝ってくれています」
花男さんは、今でも曲作りをしながら月に10本ほどライブをしています。冬の北海道ツアー後は道外でのライブも多くなっていくようです。また、2011年に起きた東日本大震災で被害を受けた地域でのライブにも力を入れていると教えてくれました。

花男さんは、震災直後は太陽族として、2016年からは花男として能登半島の地震や自然災害での被害があった町を、音楽で応援し続けています。しかし、当時は音楽をはじめとするエンターテイメントのイベント開催に対する批判も多かった時期。そういった世間の流れの中でライブをすることに、迷いはなかったのでしょうか。
「もちろん、ライブなんかやっている場合じゃないだろうと言われたこともあります。でも、こんな時だからこそ音楽を必要としている人もいると思ったんですよね。みんなそれぞれの立場で考えは違うだろうし、何が正しいか分からない。だから、自分の想いを信じて、できる範囲のことをやっていこうと決めたんです」
被災地でライブを見てくれた人々から、感謝の言葉をもらうこともたくさんあったそうです。そんな中、花男さんには忘れられない出来事がありました。

「トラックの運転手をやっている高校の同級生(加福豪さん)が仕事で岩手県の大槌町に行ったとき、札幌ナンバーを見たおじいちゃんに『札幌から来てるなら太陽族ってバンド知ってるか?』と聞かれたそうです。そうしたら、『太陽族が震災直後にこの街に来てライブをやってくれて、それを見た孫が不登校をやめたんだ。いつかそのバンドに会ったらありがとうと伝えてくれ』って。その話を友達がしてくれ、うれしそうに話してくれる友達の姿も含め、うれしくて涙がでました。あの時期、思い切ってライブをやって本当によかったと思いました。そしてその友達は『バンドができてなくても、歌えてるだけですごいべや。胸張って歌えよ』と話してくれて、その言葉に今も本当に救われています」
宮田モータースを始めてからも、ライブにはさまざまなドラマが詰まっていると話してくれた花男さん。
「今度、太陽族が渋谷のクアトロで活動休止ライブをしたのと同じ2/23に、道東のライブハウスが無い厚岸町にて、手作りで1日限りのライブハウスを作りライブするんです。昔の自分だったら、そんな大事な日にもっと大きな会場でやらなきゃって思ったかもしれません。でも今は、小さなライブハウスだって、ライブハウスが無い町だって、田舎町だって、大きなクアトロに負けないくらい、面白い時間がみんなと作れると感じているんです」


メジャーやバンドじゃなくてもやれることはある
北海道で産声をあげた自分の子どもが、もう小学生になったと目を細める花男さん。成長を喜ぶ反面、「自分の子どもたちに、太陽族やバンドのライブを生で見せてあげられないのが悔しい時もあります」と話します。
そこで、またバンドを組みたいという気持ちはあるのかも伺ってみました。
「今はまだ予定はないですが、もし太陽族じゃなくても、いつかまた組みたいという気持ちはあります。でも、その前に花男として、宮田モータースでの活動の土台を作りたいです。宮田モータースを始めて10年くらいたちますが、まだまだ足りない。最低でも20年、太陽族と同じくらいの時間をかけて積み重ねていきたいと思っています。思い通りにいかなくても、そこからまたやれることは必ずあるということを、いろいろな活動を通して伝えたいんです。子供たちにも、思い通りにいかない事があっても、そこから道はゆっくり作れるという所を、背中で見せていけたらと想っているんです」

今、宮田モータースから、みんなが喜ぶニュースを作ることも自分の生きがいと柔らかな表情を浮かべる花男さん。そんなニュースのひとつとして、こんな話も聞かせてくれました。
「地元北海道で仲間たちと冬のツアーが実現できたり、プロ野球選手の仲間が自分の曲を大切にしてくれていたり、大先輩のブラフマンや、武道館も大成功させたHumpBackともライブが決まっていたり。仲間や先輩に感謝ですが、諦めなければ、メジャーやバンドでなくても、都会に住んでなくても、できる事はあるんだということを1つずつ証明したいです」
もともと札幌出身の花男さん。離れたからこそ分かる札幌の魅力について聞いてみました。
「札幌って、挑戦したり戦ったりする人が多い街だと思うんです。だから移住者も多いし、素敵な出会いがきっとあるんだろうなって。パワーがある街ですよね。よく、東京と比べられるけど、どちらにもいい所があると思います。だから、俺は東京も札幌も好きです。そしてやっぱり田舎町も好きです」

最後に、音楽をやりたいと考えている若者にメッセージをお願いしました。
「音楽をやりたいという気持ちを持ち続けてほしいです。上手い下手は後からついてくるから、ビビるなって言いたい。バンドを組むのもライブするのも、経験不足だとか下手くそだとか思う前に、どんどんやった方がいい。本当にやりたいっていう気持ちがあれば、どんな苦労があってもしがみついて頑張れるし、周りも応援してくれると思います。本当にやりたいかどうか。大事なのはそれだけです」
高校生でバンドを結成し、成功と同時にさまざまな挫折も味わった花男さん。ミュージシャンを目指す若者への言葉には、そんなご自身の経験があるからこその重みを感じました。中学生の頃に花男さんが聴いたブルーハーツの曲のように、花男さんが作った音楽もまた、きっと誰かの心に深く刻まれているはずです。
