あまり自分を語ることは得意じゃないと、少し照れたように話し始めた坪山悟さん。2019年東区のモエレ沼公園近くにパン屋「パンのなる木」をオープンさせた若きオーナーです。
奥様と一緒にお店を切り盛りし、3人のお子様を育てる父でもある坪山さん。現在33歳の彼に聞いた、これまでの人生と、自身で経営するパン屋の話。そして、大切な家族への想い。
坪山さんの性格がそのまま投影された、実直な言葉で紡がれるお話をお届けします。
夢の最初の一滴は、幼い自分からのメッセージ
「自分のことは本当に話さないですね」
そんなひとことから始まった、パン屋「パンのなる木」のオーナー坪山悟さんのお話。札幌市の隣町である江別市出身で、3人兄弟の末っ子。高校生まで江別に住んでいました。両親は小学校の教員、姉や兄も翻訳者や地方公務員として活躍し、食品に関連する職業の家族はいません。
「僕は両親が高齢になってからの子どもで、末っ子だったこともあり、上2人の姉兄に比べるとだいぶ甘く自由に育てられたように感じます(笑)。ただ、小さいころから料理やお菓子づくりが好きだったかといわれるとそういうわけでもなく、普通に外で遊ぶのが好きな子どもでした」
家族からの影響でパン屋を目指したわけではなく、きっかけは別なものでした。それは、高校卒業後の進路を決めるタイミングに、坪山さんはこう思ったそう。
「もう学校に通いたくないと心の底から思いました(笑)。大学に進学すれば4年間また学校に通わなければいけない。そもそも学校に通う目的を失いつつあって、勉強も苦痛でした。ただこのまま高校を卒業しても手に職があるわけでもないし、どうしようと思って…。それなら就職に強い2年制の専門学校にしようと閃いたのですが、何の専門学校にいけばいいんだろうと…やりたいことも思い浮かばないし、なかなか答えがでなかったです」
そんな中、進路を決める締切がどんどん近づいてきます。何の専門学校がいいんだろうと考えていたある日、自宅である手紙を見つけます。幼いころの自分から、未来の自分に宛てた手紙でした。そこには拙い字で「パン屋になってね」と書かれていたそう。
「小さいころの自分がなぜ『パン屋になってね』と書いたのかはわかりませんが、その手紙をみて、そういえば両親から小さいときに『悟はパン屋になったらいいんじゃないか?』とすすめられていたのを思い出したんですよね。両親は僕のどこを見てそう思ったのかわかりませんが、やっぱり親ってすごいですよね」
ちょうどそのころドーナツ屋さんで、アルバイトをはじめていました。小麦で何かを作ることが身近になりつつあり、「パン屋もいいかもしれないな」と少しずつ自分の中で未来が具体化してきていました。さらにその後、坪山さんの背中を思いっきり押す出来事がおきます。
「高校の同級生にパン屋になりたいかもと話したら、ものすごくバカにされたんですよね。あだ名を豆パンにされるみたいな(笑)。それが頭にきて『絶対にパン屋になって見返してやる』と思って、パン屋になろうと決意しました。まあ、今だから思いますが、当時のパン屋やカフェなどのパブリックイメージが女の子がなるものや憧れるものといった雰囲気もあったので、同級生も深く考えずそのイメージでバカにしてきたのかなと思います」
パン屋になる!と決めた坪山さんは高校卒業後、調理製菓専門学校に進学します。
人生を共にする女性との出会い
2年制の調理製菓専門学校に進み、調理について学ぶ日々が始まりました。
1年目は製菓と製パンをまんべんなく学び、2年目はそのどちらかを専攻できる学校だったため、坪山さんは2年目から製パンを選択し、パンづくりに没頭していきます。
順調に技術を取得し、様々な種類のパンを焼けるようになり、パンづくりの楽しさを掴んでいった学校生活の中で、坪山さんはある女性と出会います。
「専門学校で妻と出会いました。彼女も製パンを専攻していたので、意気投合するまでに時間はかかりませんでした。この時から将来独立してパン屋を持ちたいと思っている話もしていて、妻は『いつかやれたらいいね』と聞いてくれていました」
一通り失敗して学んだ、人との付き合い方
製パンを学ぶ2年間はあっという間で、卒業が見え始めた頃、坪山さんは就職に向けて動き出します。
「いきなり独立は難しいとわかっていたので、まずはどこかで修行の意味も込めて就職しようと考えていました。最初に就職のための研修をさせてもらったお店は小規模の個人店だったんですけど、規模感がちょうどいいなと気に入りました。大規模のお店に就職してしまうと、技術や経営のノウハウを学ぶのに遠回りするなと感じていたので、小規模に絞って就職活動していました」
結果、最初に研修したお店の扉を、坪山さんは叩くことになります。この個人店は、正社員で働いていた人が退職するタイミングだったこともあり、すぐに第一戦で活躍できるようになりました。しかしパンをつくる仕事以外の面で苦労をします。人材育成や、今までやったことがなかったパートさんたちのマネジメントなどで、坪山さんは慣れない分野の仕事に翻弄されます。
「当時は理由もあまりなく『偉くなりたい!』みたいな変な考えがあって(笑)、最初お店に就職した時は『小規模のお店だし、10年後には自分のものになるんじゃないか』くらいの浅はかな気持ちだったのですが、小規模だからこその大変さを凝縮したような洗礼を受けまして(笑)。僕の後に入ってきた後輩は、パンが上手く焼けなくて基本から教えることになり、パートのみなさんとも僕の考えを押し付けてしまって揉めてしまうこともしばしばでした」
毎日いろんなことが起きて、頭を抱える日々だったと話す坪山さん。それでもこの時期はすごく貴重だったといいます。
「社長は現場に意見を押しつけるタイプの方ではなかったので、自由に失敗させてもらえたんですよね。自分の考えをパートさんに押し付けたらどうなるのか。理想ばかり伝えても、全く自分の思い通りには動いてくれない。怒ってもダメ。悩みに悩んで、一通り失敗して、人との付き合い方を学んでいきました」
就職から3年後に店長の肩書きが付き、パートさんたちとお店をうまくまわせるようになっていきます。このことが坪山さんの財産となり、自信に繋がっていきます。
独立か継承か。第二子妊娠と同時に動き出す歯車
仕事も順調に進められるようになってきた頃、坪山さんは社長から「ベーカリークラブN43°」という団体を紹介されます。この団体は、道内のベーカリーに関わる有志で結成され、技術向上のための情報交換を目的として活動しています。
「社長に言われて参加した団体だったので、参加した当初はその凄さに気づいていなかったと思います。ある日参加したら『あれ、よく見たらパンの第一人者と呼ばれるあの人が登壇している!?』と、やっと気づきまして(笑)。そこからは、参加して人とつながったり学んだりすることが楽しみになっていきました」
団体には何店舗もパン屋を経営する人や有名なパン職人など、名だたる面々が集まっていたそうで、当時最年少での参加だった坪山さんは可愛がっていただけたと語ります。
「それまで自分が勤めているパン屋の社長しか、パン屋を経営する人と喋ったことがなかったので、『目の前の社長だけが社長じゃないんだ』と再認識させられました。いろんな話を聞くうちに、それが刺激となって具体的に独立を考えるようになっていきました」
坪山さんはその時、27歳。社長もその独立の雰囲気を感じ取ったのか、お店を坪山さんにお店を継いで欲しいと声をかけます。ただこの時、奥様のお腹には2人目が宿っていました。
「事業承継の話は以前からされていたのですが、なんとなくお互いのタイミングが合わなかったんですよね。2人目も出来たし、すぐには動けない状況だからこそ、事業を引き継いで、自分のお店として経営するのも良いのでは?とも思ったのですが…心が動かなかったんですよ」
そこで坪山さんは、ベーカリークラブN43°のパン屋を経営する先輩方に相談します。先輩方も心配してくれ、相談にのってくれたそうです。
「『事業承継をすると、お金をかけずにすぐに自分のお店にはなるけど、今までのお店のイメージを払拭するのは難しいよ』と言われたのが大きかったですね。今まで雇って自由にやらせていただいた恩はありましたが、自分の区切りとして退職することにしました」
2人目のお子さんを授かり、これから生きていく上での収入の不安など、多くの迷いや不安のあるなかでの退職でした。
もう一度雇われ、独立準備を開始
退職した坪山さんでしたが、もちろん、家族を養っていかなければなりません。自分のお店の開店を目指すにせよ、資金も必要だったため、また違うお店で雇われる事を決意します。
「すでに小規模のお店で、様々なことを取得していたので、次はお店の大きさは特に気にしていませんでした。ちょうどタイミングよく全国規模のパン屋さんが北海道に初出店すると聞いて、知り合いづてに紹介してもらい、またパン屋での仕事をスタートさせます」
ここのパン屋には、面接時点で「2年で辞めて、独立します」と伝えていたので、まわりもすごく応援してくれ、居心地がよかったとのこと。居心地が良すぎて、少しだけ予定より長く働いたそうですが(笑)。
「一緒に働いていた人がいい人すぎて。新店舗立ち上げの大変さを分かち合って、苦楽を共にしたっていう気持ちがすごく強かったですね。ちょっと大人の青春みたいで、楽しかったです。ただ開店資金も貯まり『時は来たな』と思い退職しました」
独立を決めてから一番難航したのは、土地探しだったと話す坪山さん。自宅兼店舗でのスタイルは決めていたのですが、この形にあう土地がなかなか見つからなかったと言います。見つけたと思って調べても、事業として使うための電気の引き込みでNGとなったりで、振り出しに戻るのは日常茶飯事だったようです。
「本当に土地探しは、時間がかかりました。どこかのテナントに入るのは、家賃をずっと払うリスクがあるので無しだなと思っていたので、最初から考えていませんでした。あと僕が通勤したくないというのもあったので(笑)、自宅兼店舗はお店を持つ上で絶対条件で探しましたね」
1年間探し続けて、やっと見つけたのが今お店を構えている場所だったそうです。
2019年に、29歳でお店をオープン
「土地が決まってからは、トントン拍子で話が進みました。まるでこの土地が僕たちを待っていてくれたかのように、本当にすんなりで。冷蔵庫が入らないとか小さなミスは多少ありましたが(笑)。それでも、開店までは順調ににすすみました」
それでは、開店初日もすんなりお店をオープンできたんじゃないですか?と聞くと。
「それが全く記憶がないくらいバタバタで(笑)。朝方まで納得のいくパンが焼けなくて、寝ずに試行錯誤してたんですよ。新しいオーブンの火加減が掴めなくて…そうこうしているうちに、オープンの時間が近づいてきて大慌てです。お客様はお店の前に並んでくれてるのに、パンが揃わなくて開店ができない。そんな僕を尻目に、手伝ってくれていた母が『もうお店あけるよ!』とお店を扉を開けちゃいました(笑)」
坪山さんいわく「人生で1回しかない、意味のあるオープンの扉を、母さんがサッと明けちゃったんですよね、そこは僕でしょ!って思いましたけど(笑)」…なんて、ドタバタのなか小さなアクシデントはありましたが、お店は無事オープン。初日は大盛況だったそうです。それで安堵できたのではと思いきや…
「至らない点を思い出しての後悔の連続でした。特に、パンひとつひとつを突き詰めて考えすぎてしまって。もっと回転率をあげて豊富なパンがないと、お客様に喜んでもらえないことは、雇われてるときも気づいていたはずなのに。最初は、そこに気づく余裕さえもなかったですね」
トライアンドエラーの日々が続きますが、徐々にお店も軌道にのってきます。ちょうどこのころ第3子にも恵まれ、公私共に順調に進んでいくのですが…
「オープンして、半年ぐらい過ぎたころにコロナが流行り始めました。それが影響してなのか、売上も落ちてしまって…。どんなパンがお客様から求められているのかと、自分ひとりで殻にこもって考えてしまっていましたね…そしたらある日、俺はもう考えるのやめよう!と急に悟りました(笑)」
それまでは、販売にも坪山さんが関わっていたのですが、販売はすべて奥様に任せるように変えたそうです。彼女が販売に集中した方が、お客様が求めているパンの情報を拾い上げてくれると感じたからです。自分は、お客様が欲しいパンを、じっくり作れるように体制を整えます。これがよかったのか、徐々に売上も戻り始めます。
「彼女のおかげで『あのお客様、メロンパン食べたいって言ってたよ!』といった情報を聞けるようになったんですよね。こういうことを積み重ねていくのが、地域に根づいていくってことなんだなって感じました。最初の方は上がってくるつくって欲しいパンのリストに『そのパンは作らない!』と、意地を張っている時期もありましたが(笑)。今は、みんなが食べたいパンを作ることを意識しています」
家族が一番大事。こどもたちの成長を、近くで見守りたい
坪山さんに、独立してよかったかを改めて聞いてみると。
「良かったですね。パン業界で雇われて働く労働環境は、昔に比べてかなり改善されつつありますが、それでも高給取りの代名詞というわけではないですし、世の中の人が動き始める前に、パンを焼いて店頭に並べなきゃいけないから、必然的に普通のサラリーマンのような働き方はできないのが現状です。もちろんそれでも多くのことを学べ、ヤリガイを感じられる仕事ですし、多くの方々がイキイキと働いていると思います。だけど、さらに家族のことを考えた上で、自分にフィットした働き方として、頑張ればお金も稼げるし、時間の融通もきくようできるようになった点では、独立して開業する途を選択したことは正解だと考えています」
家族の話をしている坪山さんの表情は、かっこいいお父さんそのものです。ただ意外にも子どもたちに働いてる姿を見せたいや、お店を継いで欲しいという気持ちは一切ないと言い切ります。
「僕にとって一番大事なのは、家族です。これは一生ブレない。でも、僕の価値観を押し付けることはしたくないんです。パン屋は大事ですが、子どもたちには自由にやりたいことをやってほしい。それを妻とふたりで見守っていたいという想いが強い。今は、こどもたちの成長に寄り添える環境を作ることができたので、子どもたちの大切な一瞬を見逃さないで暮らしていきたいです」
これからの夢。共通点はどちらも「誰かのため」
これからやりたいことを聞いてみると、2つあると教えてくれました。
「ひとつは、アレルギー対応のパンをつくりたいです。お店に来てくれるお子さんで『僕が食べられるパンがない』と言った悲しい表情が忘れられなくて…。うちは小さなお店で工房がひとつしかないので、完全除去は難しいのですが、ひとりでも多くの人に食べてもらいたいと試行錯誤中です」
その第一弾としてまずは、美唄市のきしもとファームさんのゆめぴりかの米粉を使った、米粉パンの製造に挑戦し、販売を開始。今後もお客様が、安心して食べられる食材を使用したパンつくりを計画していくそうです。
「もうひとつは、パン屋を始めたい人の支援ですね。僕の体験が役に立つかわかりませんが、相談くらいはのれるかなって思っています。昔出会った人で『パン屋をオープンさせるには、宝くじでも当てないと無理!』とハードルを自分で上げてしまっている人がいたんです。出来ないと自分で決めたらもう出来ない。『形はどうであれ、必ずできるよ』ってことを僕は伝えたい。パン屋を持ちたいと思っている人は、僕はいつでもお店にいますので気軽に相談にきてください」
取材が終わり、取材陣が外へでると、偶然通りかかった女子高生の2人組が、「ここのパン、この間食べた!超おいしかった〜。なんてパンだったっけな……」と話しているのがすれ違いざまに聞こえました。しっかりと地域に根差して、地域の幸せもつくっているんだなと感じます。
子どもたちが将来なりたい仕事に「パン屋さん」は上位にくるのに、大人になるとなぜかその夢が就職活動として現れないことに業界のみなさんも嘆いています。郊外のちいさなパン屋さんですが、子どものころの夢を叶え、家族と幸せに暮らしている坪山さんのこれまでを知り、多くの若いひとたちがパン屋さんで働くことをより現実的に考えてくれたら…と思った取材でした。