赤沼俊幸さんは、札幌市を拠点にするフリーのWebコンサルタントで「マーケティスト」というサービス名・屋号で活動されています。そんな赤沼さんは、「ドジっ子看板」の収集や研究、カードゲーム「AIおじさん」の企画・製作といった、ちょっとマニアックでユニークな活動でも知られています。
「ドジっ子看板」は赤沼さんが名付け親で、写真コレクション「ドジっ子図鑑」や、オリジナルキャラクターの「どじた」グッズなども企画販売。テレビ番組や新聞でも紹介されて、カプセルトイ用の豆本にもなるという人気ぶりです。
街歩きが好きで、面白そうなものを発見すると、つい深掘りしたくなる性格だという赤沼さん。何かアイデアを思いつくたびに勢いが止まらなくなり、イベントを開いたりグッズをつくったりと、次々にアクションを起こしていきます。札幌未来ベースでは、多彩な活動のごく一部をピックアップ。パソコンにはまった子ども時代から東京でのサラリーマン時代など、現在の赤沼さんをつくり上げたエピソードをお聞きしました。
自分が好きなことを広めたいと思っている人には、ぜひ読んでもらいたい記事です。
体を張って危険を知らせる「ドジっ子看板」の研究が全国区に
「ドジっ子看板」グッズを持って、取材場所に現れた赤沼さん。NHKの番組でも2回紹介されたほどで、いまやドジっ子看板研究家と呼ばれていますが、実は、ドジっ子看板以外にも、ニヤリとしたりクスッと笑えたりするような看板やポスターなどの写真コレクションを持っているそうです。そのきっかけは、街歩きや旅が好きなこと。
「昔から、歩いていて行く先々で面白いとか興味深いとか思った写真を撮りためて、種類ごとにコレクションをしていました。そのうち、僕が面白いと思ったものをほかの人とも共有したいと思って、スライドショーのイベントをしていたんですよ。閉店してしまったお店の貼り紙とか、『元祖』がついたお店の看板など、いろいろと紹介したのですが、そのなかで僕も気に入っていて、参加者にもいちばんウケが良かったのが、『ドジっ子看板』でした」
ドジっ子看板とは、赤沼さんが命名した、子どもが描かれている安全標識のことです。例えば、ボールを追って車の前に飛び出しそうになったり、乗り物でドアに手を挟まれてしまったりする、危険を知らせる男の子の看板を見かけることがありますよね。
赤沼さんは、絵の子どもたちが、「体を張って事故を未然に防ごうとしている」とリスペクトの思いから「ドジっ子」と命名、その写真をまとめた「ドジっ子図鑑」を自主発行・販売しました。さらにSNSで発信したところ、全国から2千枚を超えるドジっ子画像が集まって、それを元に赤沼さんはドジっ子看板の設置場所や危険パターンの傾向、その歴史から地域性までを研究しています。
興味を持ったら、どこまでもハマっていく赤沼さん。「どじた」というオリジナルキャラクターもつくって、キーホルダーなどのグッズを製作し販売も行っています。『ドジっ子看板』はマスコミにもたびたび取り上げられて、全国区で関心を呼びました。最近ではトイカプセル用の豆本にもなっています。
画像生成AIを取り入れたユニークなカードゲーム「AIおじさん」
まだほかの人が手を付けていない、サブカル的なグッズを生み出し、発信するのも赤沼さんの得意とするところ。世の中で何か新しいツールがミームになれば、まずはどんどん使っていきます。
昨年に、自主制作・販売したカードゲーム「AIおじさん」は、画像生成AIを使って「おじさん」を大量につくったことから生まれました。リアルで、ちょっとクセがあるおじさんのカードには強烈なインパクトがあります。
5分もあればできるということで、私たち取材班もAIおじさんをプレイすることに。ルールは簡単で、参加者が同じ種類、枚数のおじさんカードを手に持ちます。テーブルの上には、お題となるテーマカードが置かれます。
このお題も、「俺の打った蕎麦を食べさせたい!脱サラそば打ちおじさん」や、「荒くれ者をまとめるカリスマ!漁業組合長おじさん」などユニークなものばかり。
参加者は、「そば打ちだから、頑固そうな感じかな」「でも、まだサラリーマンっぽさが残ってる」といったふうにお題のイメージを伝え合った後、これ!と思うカードを一斉に出します。
全員が同じカードを出せば成功で、手持ちのカードが1枚になれば終わり。私たちも、「おじ・さん!」と声を上げながらカードを出して盛り上がりました。
それにしても、なぜカードのキャラクターが『おじさん』なのでしょうか。「普通、最初にAIで作ってみたくなるのは、かわいい女の子だったりしますよね」と赤沼さん。本業のWEBマーケティング的な視点で狙った部分もあるようですが、それだけではないようです。
「昔から、僕はなぜかおじさんの顔に惹かれるんですよ。別に、中年男性が好きってわけじゃないんですけど…。でも、街を歩いている人を勝手に写すわけにもいかないので、ちょうど画像生成AIが出てきたときに、どんどんつくってみたんです。それで自分としては満足したんですけれど、ふと我に返ったんですね。『この大量につくったおじさんたちをどうしよう・・・』って。考えているうちに、前から一度はボードゲームとかカードゲームを制作してみたかったことを思い出して、『そうだ、これをゲームにすれば、ハードディスクに埋もれてしまわずに、おじさんたちも日の目を浴びられる』と、製品化に取り掛かったんです」
頭と足を使って楽しみながら、カードゲームを商品化
それにしても、アナログゲームの制作は未経験だったにもかかわらず、どうやって「AIおじさん」を製品にしたのでしょうか。
赤沼さんはまず、ボードゲームやカードゲームの愛好家たちが集まる「ボドゲカフェ」を訪ねました。そして、試作した「AIおじさん」で遊んでもらったのです。ゲームは盛り上がり、喜んでもらえた赤沼さんは、「これはイケる」と確信しました。
ボドケカフェで遊ぶうちに、いつしか「ボドゲ仲間」として受け入れてもらった赤沼さん。仲良くなった彼らに、製品化の方法や発注先、コストを抑えるコツを教えてもらいました。そしてついに、本格カードゲーム「AIおじさん」が誕生します。
札幌で行われたアナログゲームの祭典「北海道ボドゲ博」や、自主制作ゲームの展示即売会「シュピールフェスト」でお披露目・販売すると、画像生成AIを採り入れたユニークなカードゲームとしてマスコミからも注目されました。
まずは自分のアイデアを形にしてみる。そして、協力してくれる人を巻き込みながら発信することで、その面白さを広めていく。これが、赤沼さんスタイルなのです。
「なんでも思いついたら、やってみたくて仕方がなくなっちゃうんです。抑えるほうが大変ですね」と苦笑する赤沼さん。その多趣味ぶりやこれまでの活動は、公式サイト「#AKANUMA」に読みきれないほどの量が載っています。
インターネットの世界に浸かり、大人たちと交流していた中学時代
IT系の仕事で活躍しながら、個人としても何かをつくったり発信したりすることで、人を驚かせたり楽しませたりしたいという赤沼さん。そのサービス精神は、自作のカードゲームできょうだいを喜ばせた子ども時代から発揮されているようです。そんなご自身の歩みをたどってみましょう。
赤沼俊幸さんは札幌市の生まれ育ちで、実家は測量設計事務所を営んでいました。赤沼少年がコンピュータに触れたのは、小学生のころに触らせてもらったワープロから。
「字が汚い僕が、こんなにきれいな文字を出せることに感激した」といいます。中学生のときは、親に買ってもらったパソコンに、一気にハマりました。そこには、赤沼さんのいう「自由」があったからです。
「大好きな歌手の尾崎豊に影響されたせいか、『大人になれば、会社に入ってレールの上を定年まで走らされる』というイメージがあって、そんな人生はイヤだ!と当時の僕は思っていたんです。でも、インターネットの世界は年齢も役職も関係なくて、良くも悪くも自由なんですよね。何でもアリという、そんなところに惹かれました。
僕はメジャーなものや流行りものが好きではなかったので、気が合うマニアックな人と交流できるのも良かった。それに、ファミコンならソフトにお金がかかるけれど、パソコンには無料で使えるフリーソフトがあるのも中学生には魅力的でした」
当時は通信回線が高かった時代でしたが、深夜帯は定額で無制限に使えるサービス「テレホーダイ」が提供されるようになって、赤沼さんは昼夜逆転の生活を始めます。「夜10時に起きて、残してあるごはんを食べてから、朝までずっとインターネット。1日の『終わり』に中学校へ行くという生活でした(笑)」
学校の授業ではほとんど寝ていたそうですが、成績は良かったのだそう。ネットでは、小学生のときから趣味だった将棋の対戦相手を募集する掲示板サイトの自作・運営をしていたそうです。
「メール将棋って知っていますか?相手にメールで『一手』を送ると、相手からもその続きの一手がメールで返ってくる。そうやって進めていくんです。多いときは、20人ぐらいとやっていたんじゃないかな。相手はたぶん大人ですね。僕もプロの将棋士になりたかったので、そこそこ強かったかなとは思います」
高校に入ってからは、小説の世界に目覚めます。大手古本チェーン店で100円の本を大量買いしての読書に加えて、みずから小説を書くことにも熱中しました。
「何かにハマると、つい自分もつくる側になりたくなっちゃうんですよね」と赤沼さん。進学した札幌大学の出版ゼミでは、元STV(札幌テレビ放送)勤務の先生が行う放送についての講義に触発され、さらにインターカレッジの放送サークルでは代表を務めるほど熱中していたことから、放送局への就職に興味を持つようになりました。
「放送サークルには、こういう人になりたいと思えるような憧れの先輩がいましたし、複数のコミュニティFM番組を持っていたので、僕も番組づくりに関わったり、ラジオで話したりしていました。とても楽しかったので、出版社よりも放送局に行ければと考えていたんです」と振り返る赤沼さん。しかし、就職活動は二転三転します。
ホリエモンに憧れてIT業界を志望、東京暮らしの3年半
「学生時代にテレビ局の報道部でアルバイトをしたのですが、体力的にタフで優秀な方ばかり。そうでないと、務まらないんですね。就職の倍率も当時はすさまじいものでしたし、僕が受かるとは思えない。かといって、番組制作会社は激務なのでやはりできそうもない」と赤沼さん。
そんなときに、IT会社のライブドアが、ラジオ放送局のニッポン放送を買収しようとするニュースを知り、「まだ30代の堀井貴文社長、ホリエモンが世の中をひっくり返していく」ことに衝撃を受けます。IT業界なら実力が重視され、新しいことにもチャレンジしていけると考えた赤沼さんは、さっそくIT系の会社を目指して就職活動を始めました。
しかし、地元札幌のIT会社には、ことごとく振られてしまいます。その理由について、赤沼さんはこう話します。
「一次試験の性格検査で、僕はホリエモンのような、『生意気だけど意欲は満々!』といったキャラクターになり切ってしまったんですね。いまだから分かりますが、IT業界って協調性、チームワークがとても重視される仕事なんです」
しかし、捨てる神あれば拾う神あり、そのキャラクターを気に入ってくれた東京のIT企業がありました。赤沼さんはインターネットの広告代理店事業に配属され、メディアプランナーとして東京で働きます。携帯電話の広告部門の立ち上げも行いました。
2年半後、赤沼さんはさらなる成長を目指してシステム系のベンチャー会社に転職。新規事業部門で教育系の携帯電話サービスを開発しました。やがて、リーマン・ショックの影響で退職した赤沼さんは、独学でプログラミングを勉強しながら半年間フリーランスとして働きました。
東京で暮らしていた3年半の生活について、赤沼さんはこう語ります。
「東京って、めちゃくちゃ楽しいんですよ。でも、お金は貯まるけれども使うところがなくて、いつも自分が疲れている感じでした。それで数か月に一度は札幌に帰ってくるんですけれど、食べ物はおいしいし、お店とか空間にゆとりがあるし、友人たちにも会える。趣味のサイクリングも、東京では危ないけれど、北海道では爽快に走れますしね。やはり、気のおけない仲間や友人がいることは重要で、学生のころから東京にいれば違ったのかもしれないけれど、僕にとっては住むところではないなと思いました」
ひとつを極めたかったけれど、いまは多彩なスキルが自分の武器に
札幌に戻ってきてからはWebマーケティング会社の会社でSEOコンサルタントを、次に働いたWeb制作会社では、北海道初のコワーキングスペース「Garage labs(ガレージラボ)」の運営を任されます。ここで150人ものIT・クリエイティブ系で働く人たちや経営者と関わりを持ったことが、その後にも役立ちました。
マネージャーの仕事は楽しかったものの、働いていた札幌支社は東京本社に統合され、コワーキングスペースはクローズされることになります。東京異動を打診されますが、赤沼さんは断りました。
「ずっと働いていたいと思えた、大好きな会社でした。でも、東京から帰ってきた僕は、これからは札幌をより良くする、盛り上げていく側になりたいと思ったんです」
そして2014年にフリーランスとして独立します。半年間は苦労しましたが、コワーキングスペース時代にお付き合いがあった会社の社長さんから、定期的な仕事を任されるようになりました。その後も、数社から仕事を依頼されるなどして、安定した生活を送れるようになりました。
「本当は職人に憧れていて、匠(たくみ)のような、ひとつのことに突き抜けた人になりたかったんですよ」と赤沼さん。ご自身については、このように分析します。
「極めることを頂上とすれば、僕は8合目までは行けるんだけど、それ以上にはどうしても行けない。それがコンプレックスでした。でも、いまでは『8合目』まで行けるものをたくさん持っていること、守備範囲が強いことを強みにしようと考えが切り替わりましたし、実際にクライアントの方々にもそのところを評価してもらっていると思います」
将来の目標は、個人活動を収益化して、収入の割合を仕事と半々ぐらいにしていくこと。街歩き研究家の和田哲(さとる)さんが出演するYouTube「ブラサトル」チャンネルの運営も担当していますが、こちらも経営的に軌道にのせていきたいと話します。
「和田哲さんは、NHKの『ブラタモリ』でも札幌を案内しているすごい人なんですよ。僕がセミナーを聴いたときも、話の内容がすごく面白くて、それなのに対面の講演だと限られた人数でしか聞けなくて、話したことがその場で消えてしまうのはすごくもったいないと思ったんですよね。YouTubeならアーカイブにして、より多くの人に届けられると、ご本人に提案したんです」
と、熱く語る赤沼さん。興味をカタチにしていくパワーは、尽きることを知りません。